中国と、どう向き合えばよいのか?とにかく,答えを多く用意することである。だからこそ、あらゆる面から眺め深く洞察する必要がある。古い話で恐縮だが、成都に旅した時のエピソ-ドを紹介しみよう。こんな、ちょいとした出来事でも中国を知るヒントになるかも・・・・
私は三国志の大フアンである。三国志に纏わる観光名所地はそれぞれ有料だ。入場料が外国人と中国人では違う。中国人は30円程度で入れるとすれば外国人は500円位はする。
切符も違う。中国人向けの切符は馬券みたいなもので,外国人向けの切符は写真入りで豪華である。
私、500円も払うのシヤクである。そこで私,中国人向けの切符で入る事にした。切符をチエックする女性がなんと3人もいる。そのうちの一人が「お前は外国人だろう」というわけ。私は慌てておもわず、「いや違う,私は中国人である。日本人ではない」と日本語で答えてしまった。そうすると、あとの二人が「そうだ、あれは広東語だ」と答えてくれた。そのあとでおまけまでついた。
「あの顔は広東人そのものである。頭の毛はちじれて,目がへこんでいる。私の親戚にも金持ちな広東人がいるけど、それと良く似ている。しかしこの人は金持ちなんかではない」と言う事で私は中国人価格で入場はしたものの、とても複雑な気持ちになった。
ということは、成都まで来ると外国人といえば髪がブロンド色で目が青い、これが彼らの外国人であるらしい。私のように目がへこんで、ちじれ毛は広東人なんですネ。サスガに中国はひろい。
米国のレストランやバーで飲み物を注文するときは、「ウイスキー」とか「ビール」といった、一般名称では通じないことが多い。はっきりと、銘柄を指定することが、間違いなく飲みたいものを手に入れるコツと言える。
さらに言えば、小泉さん(*日本国首相)のように単語だけを言うのではなく、センテンスで注文することが望ましい。私は何を欲しているのか、明確に主張することで、ウエイターなりバーテンさんは確実に反応してくれる。そこで「I have a Kirin」となるわけだ。このとき、間違っても「僕はキリンだ」と言ってはいけない。日本語に直訳すると、「私はキリンを持つ」とは変な表現に感じるが、これは「I like to have a Kirin.」を縮めて言ったと解釈される。
「私はキリンを持つことを好む」、すなわち持ちたい=飲みたいと主張していることになる.
あるいは、「I have」と言えば、「have」という動詞にはサブジェクトである私の強烈な要求の意思が込められているので、それだけで通用するとも言える。
いずれにせよ、飲みたい酒を手に入れることは極めて重要な事項であるから、確実にそれを実現するためには、単純明快に、望むところを、しかも具体的に述べることが必要である。
英語を母語としている人は、一対一で対面すればそこでは互いの主張のぶつけ合いとなる、との理解の下で頭が働いているので、その路線に沿って述べてやらないと理解してくれないことになる。「ご注文は?」という問いかけが、「What can I serve (or help) you?」と来るわけだから、こちらも「俺はどうしたい」と言わなければならない。
さらに、物事を具体的に述べる、あるいは定義を明確にすることが、述べる(話す、記述する)上での基本にあるから、「ビール」という一般名称で言われると、バーテンさんの頭の中のデータベースが混乱することになる。「ビール」と発音される酒の銘柄があったかなと自分のDBをグルグルと検索することになるのだろう。しかも「ビール」という発音はなかなか厄介で、伝わらないことが多い。
アメリカやイギリスの小説を読んでいても、「スパイ某は車で立ち去った」とは書かず、「ホンダで立ち去った」という記述に出会う。ともかく、彼らは物事の定義(definition)にはうるさいから、そのつもりでこちらも対応しないと話は行き違いになる惧れが強い。
酒の注文は行き違ってもまだ損害は微小であるが、これがパテントや製品の仕様書(specifications)となると、行き違いがエライことになりかねない。仕様書においても、「I have a Kirin.」のごとく、誰が(サブジェクト)何を(具体的に)どうする」を明快に記述することが大事となる。
(05.9.5. 篠原泰正)
80年代のアメリカは双子の赤字(財政赤字と貿易赤字)を抱えて不況の真っ只中にあった。
財政赤字を生み出した原因は、膨大な軍事費と福祉コストのアップにある。いまの日本と同じで国債の乱発による借金経営体質である。貿易赤字をもたらした最大の基は日本製品にある。
つまり、アメリカは物つくり競争に敗北したのである。では、アメリカはこの不況からどう立ち直ったのか?日本に米国債を買わせて、ジヤパンマネ-を使って処理する事であった。
一方、日本のバブル処理はどうであったか?日本政府は10年もかけて国民の血税を使って処理してきた。日本政府の財政は赤字であるが,貿易は黒字である。しかし2010年には恐らく対中貿易は赤字となるであろう。日本が双子の赤字を抱えたとき果たしてアメリカが取った方法が摂れるだろうか・・否である。
では中国のバブル処理はどうであろうか?中国共産党のしたたかなシナリオが目に見え隠れするが・・・中国政府が描くベストシナリオとはマネ-ゲ-ムに勝利することである。
基本的には,来るものは拒まずである(バブルは止められない)。元の暴騰と暴落をコントロ-ル出きればよい。元の暴騰は中国へ進出した外資の、撤退を促す。そして元が暴落する。つまり、あらゆる外国企業の中国における資産を自動的に吸い上げることになる。
中国政府はこのカネでバブル処理がおこなえる。生産設備,技術指導、中国人社員の教育、いずれもが外国企業からの投資である。このベストシナリオは日本にとって最悪かも・・・・・・
最近はあまり聞かなくなったが、ひと時、「バイリンギャル」がもてはやされた時があった。
この言葉は「バイリンガルbilingual」に「ギャルgirl」を重ね合わせた造語で、日本語と英語あるいはその他の西欧語の両方ができる、主に帰国子女の若い女性にたてまつ(奉)られたものである。
スイス/米国資本の会社に勤めているとき、私も二人の「バイリンギャル」にはずいぶんお世話になった。いや、「ギャル」と言っては申し訳ない。Y夫人とE夫人で、アメリカ本社の社員である。一人は高等学校までは日本で過ごし、カリフォルニアの大学に入った後ずっとアメリカで暮らし、旦那もアメリカ人のY夫人である。もう一人は、日系二世で、ただし、日本文化を忘れるなという親の方針で、高校は日本に留学し、その後カリフォルニア大バークレイを卒業した才媛のE夫人である。
私がヨーロッパの友人の、今は忘れてしまった誰か、に昔聞いたところでは、厳密な意味でのバイリンガルとは、二ヶ国語で「考える」ことができる人を指すとのことであるから、そのような人は特に日本ではめったにいるものではない。
Y夫人は18歳まで日本で過ごしたわけだから、母国語は当然日本語となる。E夫人は両親とは日本語で、そのほかは、兄弟姉妹との会話を含めて、すべて英語の環境で育ってきた。この二人に、いつもは日英どちらの言葉で考えているのかと聞いたところ、どうもはっきりしない。普段、意識していないからだろう。その場合場合に応じて使い分けているのかも知れない。
Y夫人の英語は見事であり、アメリカ人社会の冗談などにも対応できる。つまり、誰もがアメリカネイティブと思い込むレベルであり、日英の同時通訳を楽々とこなす。彼女にあるとき、言葉の並べ方がこれほど違う日本語と英語の処理を、頭の中でどのようにしているのか聞いてみたことがある。ところが、彼女は言語に特殊な才能があるのか、英語の習得にもあまり苦労した経験がなく、日英言語の差をあまり意識していないようなのだ。
処理の仕方の秘訣は、そういうことで、答えが得られないままであったが、ひとつだけ印象深かった話がある。この質問をしたときは、カリフォルニア本社の食堂で話をしていたのだが、彼女の言うところでは、このようにシノハラさんと日本語で会話していると、周りの席の会話は耳には入りません、とのことだ。どうやら、意識しないで、日本人と気楽に、母国語である日本語で話をしていると、彼女にとって何不自由なく使える英語が席の周りを飛び交っていても、ただの雑音として耳からシャットアウトされているようなのだ。それでも、知人がわれわれの席に立ち寄って一言声をかけると、瞬時にして英語で話を始める。あたかも、頭の中で処理装置がガチャンと切り替わったようだ。
長嶋監督にサードゴロの捕り方の秘訣を聞いても、凡人にわかるよな方法論で説明はしてくれないだろう。「グラブを差し出して捕ればいい」と言われるだけだろう。同じように、言語の達人に英語の処理方法を聞いても無駄であった。
(05.9.4. 篠原泰正)
どこで読んだのか忘れてしまったが、ある学者が、日本語でも、幼児期には、「僕、食べたい、アイスクリーム」というように、西欧言語と同じ「サブジェクト(S)-動詞(V)-オブジェクト(O)の順序で話す、と書いていた。そう言われれば、息子も小さいときにはそのようなしゃべり方をしていたような気もする。
成長するにつれて、この順序がなぜ「SOV」すなわち「僕はアイスクリームを食べたい」に変化するのだろうか。
私の拙(つたな)い文化観察によれば、この変化は、日本文化の最たる特徴である「自然と、他人様と共に生きていく」という共生の哲学に基づいている。日本文化の中で、幼児が「社会」を意識し始めると、自分の主張を露骨に表現することはどうもマズイと気がついてくる。そこで、「アイスクリームを食べたい」とそっと言うやり方に変えていくわけだ。「食べたい」という主張をセンテンスの終わりにそっと言うことで、主張を和らげられることを賢くも悟っていくのだろう。
西欧の言語、中でも、力関係の上で、それらを代表する英語のSVOの順序と日本語のSOVの順序が違っていることが、我々日本人が英語を学習する上での最大の障害となっている。順序が違うことは処理の手順が別ものになることを意味し、手順の違いは処理装置に多大の負荷を掛けることになるからである。
英語を扱う時には頭の中の処理装置の手順を切り替えればよいだけ、ともいえるのだが、実は心理的な抵抗感がその切り替えを妨げる。波風立てないようにそっと言う日本文化が身に染み付いているので、それが心理的抵抗となって現れてくる。幼児のように、あたりかまわず「僕、食べたい、アイスクリーム」と叫ぶことが恥ずかしいわけだ。*この「恥ずかしい」という日本文化については、いずれ語りたい。
一方で、西欧の人は、特に英語を母語とする人達は、「僕、食べたい、アイスクリーム」と叫んでくれないと、意味を理解できない。さらに、厄介なことに、「アイスクリームを食べたい」と、サブジェクトを抜いて語られると、ますますもって、この人は何を言わんとしているのか、まったく理解できないことになる。サブジェクトを抜いて語ることは、動詞を末尾に持ってくるのと同じく、露骨に言わないための手段の一つであり、同時に、動詞を末尾に置くことで、サブジェクト抜きの表現が成立しやすくなるという関係にある。
英語で自分の意思を表明したり、状況を説明したりするときには、日本文化の華である「他人様と共に穏やかに生きる」心性を一時脇に置いておき、幼児になったつもりで「僕、食べたい、アイスクリーム」叫ぶことが要求されることになる。
(05.9.3 篠原泰正)