石油の次の時代においては、すなわちこれからの時代は、日本が世界の表舞台に立つことを、世界から、少なくともアングロ・スフィアを除く世界から、要請されるはずである。なぜならば、日本人は、自然と他人様と共に生きていく哲学をその文化の基盤に持っており、しかも、石炭・石油という化石燃料(fossil fuels)時代に適応して、良いことも悪いことも150年経験してきた実績を持つからである。その間、繁栄もしたけれど、近隣へ大いなる厄災をもたらした、申し訳ない振る舞いもしてきた。地球という自然と共生していくことが、全ての考えと行動の基軸にならざるをえないこれからの時代において、日本人の哲学と経験とそして知恵が、世界から求められている。どのように対応すればよいのか、誰にも分からない時代の入り口に立って、日本人には、昔、西へ西ヘと向かう開拓民の先頭に立ち、険しいロッキー山脈を越える道を先導した、あの勇気ある人々と同じように、世界のパスファインダー(path finders)としての役割が求められている。
この役割を担当するためには、哲学と経験と、生き方(way of life)と知恵を世界の人々に語り、理解してもらうことが必要となる。ロッキー山脈のパスファインダーは無口であっても、先頭に立つ勇気と経験と勘と知恵を、身をもって示せばその役割を果たせただろうけれど、今度のパスファインダーは語らなければならない。そして、理解してもらうためには、論理的に語る必要がある。文化を共有する日本人にしか分からない表現では、世界で通用しない。そこから、論理的に日本語文章を記述する、という課題が生まれる。日本語で論理的に記述してあれば、英語や中国語やその他の言語に翻訳することに障害は存在しない。その論理的文章を各国語に翻訳できる能力のある人材は豊富に国内に存在するし、また論理的記述がなされていれば、外国の人が日本語を学ぶ上で、何倍も容易になるはずである。
世界に開かれた日本語、オープンジャパニーズ、国際語としての日本語を時代は求めている。
その反対の極地にある閉ざされた日本語文章の例を、戦艦大和が鹿児島沖で撃沈されて60周年の今年、鎮魂をこめて、帝国海軍連合艦隊司令長官より全軍に布告された感状を読んでみる。-吉田満「戦艦大和ノ最期」より-
「昭和二十年四月初旬、海上特攻トシテ沖縄島周辺ノ敵艦隊ニ対シ壮烈無比ノ突入作戦ヲ決行シ、帝国海軍ノ伝統ト我ガ水上部隊ノ精華ヲ遺憾ナク発揚シ、艦隊司令長官ヲ先頭ニ幾多忠勇ノ士、皇国護持ノ大義ニ殉ズ 報国ノ至誠、心肝ヲ貫キ、忠烈万世ニ燦タリ ヨッテココニソノ殊勲ヲ認メ全軍ニ布告ス」
この文章を私の3X3分割で読む.( )は私が補った.
「主語部」 「修飾・目的語部」 「述語部」
昭和二十年四月初旬、
(第2艦隊は)
海上特攻トシテ
沖縄島周辺ノ敵艦隊ニ対シ
壮烈無比ノ突入作戦ヲ
決行シ、
帝国海軍ノ伝統ト
我ガ水上部隊ノ精華ヲ
遺憾ナク発揚シ、
艦隊司令長官ヲ先頭ニ
幾多忠勇ノ士(は)、
皇国護持ノ大義ニ
殉ズ
(その)報国ノ至誠(は)、
(私の)心肝ヲ 貫キ、
(その)忠烈(は)
万世ニ 燦タリ
ヨッテココニ
(私は) ソノ殊勲ヲ 認メ
全軍ニ 布告ス
読んで分かるように、
(1)この作戦を誰が命令したのか書かれておらず、責任逃れの文章の典型となっている
(2)誰が命令を実行したのかも示されていない。どこかの部隊が勝手に突っ込んだと理解されても仕方がない怪しげな文章である
(3)誰が殊勲を認め全軍に布告するのかも記されていない。日本語の文書で未だに多く見かけるところの、表題に記されていると、分かっているはずとして主語抜きで文章を書く例の一つである。
美文調に飾られているが、誰が、何を、何のために、誰に命令し、その結果どうなったか、を明確に記述しない、すなわち論理的に因果関係を明確に述べないやり方は、責任を逃れるための「卑怯」な表現であり、これでは護衛の駆逐艦を含め、艦と命運を共にした4千人の将兵の霊も浮かばれないだろう。
これは60年前の文書であるが、恐ろしいことに、この種の関係と責任元を明確にしない文書・文章は未だに、特に公文書に多く見られる。このような日本語文章がまだまだ多く発信されているとなると、論理的に明快な日本語文章を書く、という命題は、日暮れて道なお通し、の感もある。論理的に明確に記述することは、発言(記述)に責任を持つことであり、頭がいくら良くても、卑怯な人には書けない。また彼らは書くつもりもないだろう。
(05.9.17. 篠原泰正)