今回の世界不況の原因は、工業化先進国に限って見れば、しごく当り前のところにある。つまり、買い手の数以上にモノを作り過ぎたという古典的な不況の一つに過ぎない。
自動車に例をとるなら、世界の中で、自動車を買う力があり買いたいと思っている人は、既に自動車をもっており、新規の購買客の数が増えていないのに、世界中で作り過ぎたことにある。作って売れないと会社は大赤字になることは小学生でもわかることである。
それでは、なぜ、このような供給過剰が生じるのだろうか。世界の中で自動車をつくっているのは自分の所1社だけであれば、世界の買い替え需要と新規需要を読んで、それに見合うだけの数をゆっくり作ればいいから、作りすぎは余程ドジでない限り起こりえないだろう。そう、競争があるから、他社に負けまいとして、あるいは他社を蹴倒そうとして、あるいは世界のナンバーワンになりたくて、むちゃくちゃ作るからずっこけることになる。
世界中どこでも、同じようなコストと品質の部品が買え、お金さえ出せば同じレベルの工作機械が買え、ディジタルで設計して、多くの部分をコンピュータプログラムで制御している製品では、機能も性能も皆んな似たり寄ったりで、購入者は差を感じなくなる。どのメーカーの製品を買ってもほぼ同じであれば、価格の安い商品を消費者は選ぶことになる。供給側は、底なしの価格競争に巻き込まれていく。
なぜ、みんな、同じ分野の同じような製品にワッセワッセと参入するのか。そこに市場があるから自分もそれ相応のわきまえに預かろうとするのだろうし、皆で同じことをしていれば「安心」できるからであろう。これは特に付和雷同型の日本人がリードしている市場に顕著に見られる現象である。たとえ事業が大赤字になっても、A社さんもB社さんもやっている市場であるから、”なんでこんな事業(商品)分野を始めたのだ!”とおしかりを受けるおそれは少ない。つまり、大勢が参入している市場は、わが身には「安全」な市場なわけだ。
このように見てくると、大手メーカーには「商品企画屋」は要らないことがわかる。なまじ腕の立つ本物の企画屋がいると、新しい市場を開拓しよう、新基軸の製品を真っ先駆けて世に問おう、などと危なくてたまらないから、体よく追放されるのがおちとなる。ここで必要なのは、他社製品とチョコット違う部分を付け加えることができる「小規模改良企画屋」だけである。従って、市場の需要の読みも、どこかのインチキっぽいリサーチ会社のデータなどを各社とも「共有」して依存しているので、コケル時には皆こけることになる。地球上の社会全体と自然環境全体を見渡して、需要がどれぐらいあるかなど考えている企画屋なんぞは存在していないのだろう。
その一方で、中小企業メーカーは他社と同じことをしていれば生きていけないから、俺はこれ一本、というところに特化する。まあ、言ってみれば、腕利きの職人が「法人」になったような存在である。他社が真似するのが難しい製品は、技術(理論が基盤)と技能(経験と感性が基盤)が掛け合わされたもので作られており、二値(白黒)のディジタルでは解読するのが難しい。また、職人の世界は、他人の真似をするのは「誇り」が許さないから、大手メーカーのように、他社が参入しているから「安心」して同じようなモノを作るという現象を見ることは少ない。
先端の工業分野でのモノづくりにおいて、このような中小企業(メーカー)が生き延びている国は、多分日本とドイツだけであろう。(イタリアは多分に手工業的で少し色合いが異なる)
話は急に飛ぶが、企業への融資はこの中小企業を最優先すれば、日本が不況を脱するのはそれほど難しい話ではないと私は思う。しかし、まことに残念なことに、金融機関も、地方政府も、大学の先生も、マスメディアも「モノづくり」がわかる人材がいない。金の卵を金と見分ける力がない。「ガキのサッカー」のように、ボールがあるところに全員が集る癖のある大手メーカーが日本の代表と思い違いしている。
これから、モノづくりにおいて、日本が世界の中で歓迎される存在になりうるかどうかは、各地方政府がどれだけ地場の中小企業の価値を理解して盛り上げに努力するかにかかっている。
(09.02.24.篠原泰正)