大西洋を渡って新大陸アメリカに移住して来た人たちが、”地球資源は人間様のために在る、その資源は使い放題である”と考える西洋世界の出身であったことが、今目の前にある、石油をベースにしてのグローバルエコノミーの崩壊の遠い原因であろうか。
アメリカ合衆国が占める土地は、限りなく広く、あまりにも豊かであったがために、空気も水も大地も森も、地下に眠る資源も、使い放題できる根拠を与えてくれた。当初の移住地の東部が狭くなると、西に向いさえすれば、人間の手付かずの地球自然が開けていた。そのため、アメリカには、「限界」という言葉は存在しなかった。
同時に、あらゆる自然物を対象物として、それを分析することから始まる西洋世界の自然科学の伝統を受け継ぐことで、そこから生まれた「技術」への「限りない」信頼も彼の地で大いに発展した。雨が降らなければ遠くの山や川から水を引いてくることで、都市の飲み水と農作物への水を確保してきた。技術の一つの勝利の証しが、今日までの西部地域の発展に見ることができる。経済の成長には限界がある、地球のキャパシティを越えての成長はありえないという考え方は、あの豊かな広大な大地にいる限り、別の世界のものと思われたことであろう。
今回の大不況、へたすりゃ恐慌というラベルを貼るべきかというほどの惨状の引き金を引いた金融世界のドンチャカ騒ぎも、元を探っていけば、この「成長に限界なし」という考えに行き着く。石油に代表される豊かなエネルギーを土台にしての豊かな工業経済が、余剰の豊かなお金を生み出し、そのお金でもってお金を生み出すシステムをトコトンまで発展させた挙句の高転びが、今回の金融危機の発端である。利益のためなら何をやってもいいのだという感覚と、技術への限りなき信奉が、複雑怪奇な錬金術(金融工学)を生み出してきた。地球の支配者は俺達人間様であるという傲慢な考えが、金融騒ぎの根幹にもある。
ひるがえって日本を眺めると、ここには大西部もなく、大昔から人間がそこら中に住んでいるという狭い列島である。その中で、自然と共に生きていくしかないという思いが当然の如く生まれて、それが何千年と続いてきた。その生き方が崩れ出したのは、西洋世界から門戸開放を迫られた幕末からであり、はちゃめちゃの様相を示し出したのは、1960年代半ばに始まる高度成長経済からであり、その初期には有名な「列島改造論」なども生み出された。さらに、列島の自然を壊し(生き物を殺すことと同義)あらゆる場所をコンクリートで固めるだけでなく、人間の精神をも壊してきたのがこの50年であった。
自然と共に生きる、額に汗して地道に働く、という意識を大事なこととしてきた民族が、これほどまでに壊れるというのも珍しい。西洋世界のクニではないのに、広大な大地もないのに、地下資源も少ししかないのに、アメリカと同じように行動するということが、いかに「調子外れ」であったことか。
アメリカを先頭にして欧州も、不況の対策を、これまでの「健全な」姿に戻すことを主眼においている。地球自然には限りがあり、しかもその限りを無視して無茶をやってきたために大気の中のCO2が増えすぎ、そのために、地球の自然が狂い始めているというのに、まだ同じやり方を続けようとしている。西洋世界はとことんアホであると思わざるを得ないし、そのアホの真似をするしかない日本社会もアホの上塗りである。
日本は、西洋世界のエリート達の解決策ではなく、地球自然と共に生きながらの経済という道を開くことができる、多分、世界で唯一の地域である。これまでの200年の、特にこの50年の、生活と経済の活動から出された「排泄物」で空気も川も土地も海も汚れ、これ以上もう捨てる「夢の島」は地球上に無いという時に、新たな生き方を示すことができる可能性を持っているのは日本しかない。今回の不況は、これまでのやり方ではもうアカンということが、経済のシステムにおいても示されたことを示している。不況対策は、新たなやり方の模索の第一歩でなければと思うのだが。
(09.02.08.篠原泰正)