前に何度か書いた覚えがあるが、私が住んでいる日暮里・道灌山は、その昔、上野の山から続く細長い半島であり、北は桜で有名な王子の飛鳥山につながっている。上野公園入り口の西郷さんの銅像が立つあたりに灯台を置けば、岬のイメージははっきりするだろう。縄文時代、この半島の東は東京湾の奥であり、西は東大がある本郷台地(その南は白雲なびく駿河台)との間に入り江が深く駒込まで切り込んでいた。
私が住むあたりのどこを掘っても縄文時代の住居跡(弥生の住居跡のさらにその下に)が見つかり、近くには貝塚もあったとの事だから、縄文の人々はここで豊かに暮らしていたのだろう。
さて、その海はどこへ行ったのだろう。これが長年私の疑問であったが、昨日、グリーンランドの北辺で地質調査をしているコペンハーゲン大学の報告を伝える記事に出会って、その疑問が解けた。グリーンランド北辺の海岸には、波で浸食された海岸線がはっきりと残されており、ここから、6千から7千年前には、北極海は凍っていなかったのだろうと報告は推測している。
北極海が凍っていなければ、当然その周りを取り囲む陸地も暖かだったろうから、今は平均して3千メートルも氷が積もっているグリーンランドの氷も無かった、あるいは極めて薄かったのでは無いか。そうであれば、縄文時代、この上野日暮里飛鳥山半島が東京湾に突き出ていた姿も納得できる。
そして、そのあと、また寒い時代が訪れ、北極海もグリーンランドも氷で覆われ、大洋の水位もドンドン下がっていったことになる。現在の道灌山の海抜は約16メートルであるから。仮に6千年前の縄文期に満ちていた海面から10メートル高かったとすれば(海抜10M)海面は今より5メートル高かったことになる。実際、本郷台地との間の谷間(谷中)の海抜は5メートルぐらいだから、この計算に大きな誤りは無いはずである。つまり、5メートル海面が上がれば、東京千葉埼玉の風景は一変することになる。
さて、6、7千年という、地球の長い歴史からはついこの間という昔に北極海に氷がなかったのなら、反対側の南極も同じく暖かかったのではないか。これも前に書いたが、ベネチア人もコロンブスも見たに違いない、オスマントルコの海軍提督であったピリ・レイエス所有の地図には、南極大陸の地形が極めて精密に描かれていた。誰が描いたのかもちろん不明だが、氷のない南極大陸の時代があったことになる。文明が生まれた頃、つまり、6、7千年前には。
南極大陸の氷をボーリングしての科学調査によれば、何十万年の氷の堆積云々と報告されているが、私の頭の中では、この「科学的事実」とトルコの提督が所有していた写本地図の南極大陸の姿が重なりあわない。非科学的人間としては、科学調査の方を疑いたい。南極大陸が再び厚く氷で覆われるようになったのは、この6千年ぐらいの間に生じたことではないでしょうか、と。毎年何メートルも積もった雪が氷となって1メートル堆積すれば、3千年で今現在の南極大陸の氷の厚さに到達する。長い期間は要らない。
何十万年前から積もっていた氷は何百メートルと残っていたとしても、南極大陸を取り囲む海には氷は無かったのではないか。これならば、今は知る良しのない古代文明の技術でもって、正確な海岸線を地図に残すことができた。
北極圏の温度上昇は地球の平均値の3倍はあるらしいから、今現在の平均0.8度Cの上昇は極北では3度近く上がっていることになる。地球の温度は、人間の体温と同じで、1度も上がるとダウンする。平均体温36.7度の人が37.7度になれば、ダウンして会社はお休みということになる。2度上がって38.7度になればウンウンうなって起き上がるのもできない。3度上がれば病院に担ぎ込まれても命の保証は無い。
北極圏は今こ既にこのような状態にある。その影響は徐々に現れてくるのではなく、短い期間に突然来る。「positive feedback」が働くからである。北極圏は既にこのフィードバックが始まる回帰不能地点を越えた。氷が溶けて海の水が増えて、東京湾にもじわじわと押し寄せ来る日もそれほど遠いことではないのかも知れぬ。
(08.10.23.篠原泰正)