やさしい経済学-はじめに
私はこの数年、「日本の知恵を世界へ」という謳い文句(?)を掲げて、教室を開いたりセミナーでしゃべったりして来ている。
「日本の知恵を世界へ」に、私は三つほどの意味を含めている。一つはどちらかというと哲学的な意味合いで、世界の大難の時を前にして、世界の人々のお役に立てる日本(人)の知恵を提供しようというものである。世界の人々が生存していく上で役立つさまざまな知恵を、日本(人)は有しており、まさに知的資源の宝庫であるから、それを眠らせておくのはほとんど「世界市民である義務怠慢」という罪に値するであろう。
もう一つはビジネス的意味合いで、モノを生産してそれを輸出して稼ぐという近代日本の伝統的なやり方(最初は絹糸の生産輸出から始まった)が通用しなくなり始めている今、知恵を輸出して稼ぐ面も大きく展開しようというものである。
三番目は、ごく近い将来、世界から「気象異変難民」が日本列島にも押し寄せてくるから、彼らが、われわれと同じように、この列島で生きていけるように、日本の知恵を短期日で伝授する必要があるとするものである。
このいずれにおいても、それを実施するためには、知恵を言語(日本語)で表し、それを文書に仕立てておかなければならないことは言うを待たない。つまり、知恵を「知的財産」化する作業が必要となる。明快な日本語で表現できなければ、せっかくの知恵も世界のお役に立てないことになる。「知的」であることの基本は明快性にあり、たとえば国内の特許明細書の多くに見られる、日本語を母語として60年以上の私が読解できない文章で構成された文書などは、もちろん「知的」失格であるから「知的」財産とはなりえない。(単に無駄ゴミである)
さて、ここでの本題は、知恵を表現する課題ではなく、もう一つの課題、すなわち、知恵を世界に輸出するためには、今、世界がどうなっているのか、なぜそうなってしまったのかを日々把握する「インテリジェンス」の話に関連する。
インテリジェンス、すなわち情報収集とその分析には道具が要る。いくつもある道具の一つに「経済学 economics」がある。これは分析には役立つ道具ではあるが、使い方を誤ると危険でもある。
経済学には二面性があり、一つは人間社会の仕組みと運動を経済面からできるだけ「客観的」に眺めようとする面である。この面において、これは「社会科学」の一つと吹聴されているが、「科学=客観」と理解してその「理論」を信じたりすると、はなはだ危険、となる。
もう一つの面は、仕組みと運動を解析すると、当然そこに問題点が浮かび上がってくるから、その対策を考えるところにある。経済学はその性質上、対象とする枠組みは「国家」を中心においているので、この対策は、しばしば国家の「経済政策」に化けて、あるいは連動して提示されることになる。そのため、経済学者の多くが、時の国家権力の身内、すなわち「御用学者」に成り下がる場合が、いつの時代でも、どこの国でも見られることになる。また、その経済政策の正当性を言い募るために、これらの御用学者はとかく経済学が社会「科学」であることを強調し、国民を煙に巻こうとするからますます危険性が高まる。
ということで、インテリジェンスのための道具としての経済学(経済の分析と対策)をこれからしばらくの間、シリーズで眺めて行こうと思う。私はもちろん経済学者でも何でもないが、半世紀近くの昔に、経済学科というところに5年間ほど籍を置いていたこともあるので、経済学について何ほどかのことをしゃべることは許されるのではないか。
(08.09.05.篠原泰正)