振り返って見ると、私はもう半世紀以上、日本と西洋の違いは何かを観察し続け、考え続けてきたようである。このテーマはディジタルで答えが出る類のものではないので、いまだに、なんとなくわかったようでもあり、相変わらずわからないようでもある。頭の中の整理を兼ねて、これからしばらく、日本と西洋と中国などそれ以外(ひとくくりにして申し訳ないが一まとめで述べるしかないぐらい観察と思考の蓄積が私の中で少ない)の3地域を比較しながら、順序かまわず書いて行くことにする。
現在の地球上の有様を眺めていると、一言で言えば、いよいよ、「西洋」もヤキがまわったな、ということになる。もう少し具体的にいえば、自然物(自分以外の人間も含む)を人間(自分)に奉仕する資源としてのみとらえる考え方と、その考え方を土台にしての強欲がほぼ極限水準に達しており、このまま行けば、それは明らかに地球崩壊に至る。そうならないようにするための対策は、この中からは生まれない。つまり、西洋流でもたらされた結果、気象異変とか石油の枯渇は、西洋流のやり方では元に戻せない。いささかの改善、改良は可能だろうけれど、根本には手が付けられない。
一方、中国、インドなどの新興強大国は、西洋とは異なる独自文明をかつて誇ってきた国だから、別のやり方を採用する潜在力を持っていたのに、愚かなことに西洋流を採用してしまった。まあ、それほど西洋流は魅力的ということだ。アラブ・イスラム地域も、かつて西洋をはるかに越えていたペルシャ文明やサラセン文明の歴史を忘れて、石油くみ出し成金で満足したままに見える。(そうでなかったら、ゴメンナサイ)
そこで、日本の出番となるわけだが、ここも大きな問題を抱えている。一つは、西洋流の毒素が体の隅々まで行き渡っているため(まだ死に至る病までではないが)、本来の良さを忘れていることであり、もう一つは、せっかくいい治療法を持っているのに、言葉でもってはっきりと処方箋が書けないことにある。つまり、まだ腕は衰えておらず、本来の心もまだ残してはいるのだが、いかんせん重度の言語障害がある。
西洋と日本を較べると、その違いは、宗教に対して精神の美学であり、言語(テキスト)に対して造形美と言える。宗教、哲学、自然科学の西洋に対するに、われわれは精神と造形と様式の美学であるわけだ。西洋流の言語による表現に弱いのは当然である。
というと、反論も出る。例えば、平家物語の語りはすばらしい言語産物ではないかと。そのとおりであるが、しかし、その語りは情景と心の「絵画的」描写であり、琵琶法師はまあ言ってみれば紙芝居のおじさん、絵の代わりに、語りでもって聴く人にその場の光景をありありと浮かべさす造形風言語なのだ。ロジカルに物事を述べていく言語ではない。
西洋流に限界が見えて、中国もインドもアラブ・イスラムもあてにできないとなると、対策案が一番ありそうなのは、日本ということになるから、その視点でこれからしばらく眺めて行こう。
(08.05.20.篠原泰正)