日本語が国連(United Nations)の公用語(official language)になったら、あなたどうする?政府から大学の先生まで誰も、一度も、世界の人々に理解してもらうための「日本語」ということを考えたことがないから、まさに晴天の霹靂(ヘキレキ)になることだろう。
もちろん、万に一つも、日本語が世界の桧舞台に立つことは現在の文明が続いている間はないだろうけれど、桧舞台が準備されているつもりで、われわれの日本語を見直すことは、大いに意義あることである。いな、意義どころか、これからの世界で生きていくためには、必須の課題である。
世界のどの国の人であれ、外国語としての日本語をわかりやすく学習することができ、その学習によって、日本政府の発表やら、社会保険の新しい仕組みやら、確定申告のやり方やら、生命保険の契約やら、アパートの賃貸契約書やら、裁判の判決文やら、特許の公報やらが読めるようになることが望ましい。病院にいったら医者の診断を理解でき、市役所に行ったら住民登録のやり方が理解でき、日本で看護師の資格を取ろうとすれば、国家試験の問題が理解できるようになっていなければならない。このことを実現するためには、もちろん、学習者個人の能力に依存するのではなく、日本語を勉強した誰もが理解できる日本語をわれわれが提供しなければならない。
日本はこれからは、製品輸出ではなく、世界各地のパートナーの協力を得て、仲間を増やしながら事業を展開して行かねばならない時代を迎えている。それと同時に、世界に向けて日本列島を開放して、勉強や仕事をしたい人は誰でもいらっしゃいと歓迎すべき時代になっている。
その時、やくざの間の隠語の如き、仲間内しか理解できない日本語しかなかったら、世界に出て行くのも世界から人を迎え入れるのも、まったく非現実的なこととなろう。
「オープン・ジャパニーズ」、「オープン・ドキュメント」と私が騒いでいるのは、文書の構成を世界標準に基づき作成し、開かれた日本語で書くようにしないと、日本は世界の孤児になってしまうと心配しているからである。廉価高品質の品物さえ作っていれば世界からお呼びが来た幸せな時代はとっくの昔に終っている。そんなものはお隣の中国にお株を奪われてしまっているのだ。彼らの人間の数とその活力と国家ぐるみで資金を手当てしているその力には、これまでわれわれが得意としてきた分野では、もう逆立ちしても対抗できるわけがない。それどころか、われわれはもう逆立ちする元気さえもっていない。
わかりやすい日本語で表現して、世界中でお仲間を増やす努力をするしか、われわれは生き延びる手立ては無いのだ。日本語を操って60年以上経つ私でさえも、読んで理解に苦しむような低品質の日本語が社会に溢れていては、ウォレン・ビーティ(Warren Beatty)とフェイ・ダナウエイ(Faye Dunaway)主役の1967年の映画の題名ではないが「俺たちに明日は無い 原題はBonnie and Clyde」ことになる。(少し引用が古すぎたか?)
厚生省の世界、司法の世界、特許の世界、医者の世界、大学の世界、保険会社の世界、市役所の世界、ありとあらゆるところでいまだに使われている意味不明の日本語を「撲滅(ぼくめつ)」(叩き潰すこと)しなければ明日の日本は危うい。
日本が今置かれている位置は、幕末から維新の時、欧米帝国主義列強から門戸開放を迫られた時よりも、もっと危うい。「世界第二の経済大国だぜ、ソンナアホナ」、と思う人は、死んでも治らない「no-tenki syndrome(ノーテンキ症候群)」におかされている人であろう。
(08.04.16.篠原泰正)