どこで読んだのか忘れてしまったが、ある学者が、日本語でも、幼児期には、「僕、食べたい、アイスクリーム」というように、西欧言語と同じ「サブジェクト(S)-動詞(V)-オブジェクト(O)の順序で話す、と書いていた。そう言われれば、息子も小さいときにはそのようなしゃべり方をしていたような気もする。
成長するにつれて、この順序がなぜ「SOV」すなわち「僕はアイスクリームを食べたい」に変化するのだろうか。
私の拙(つたな)い文化観察によれば、この変化は、日本文化の最たる特徴である「自然と、他人様と共に生きていく」という共生の哲学に基づいている。日本文化の中で、幼児が「社会」を意識し始めると、自分の主張を露骨に表現することはどうもマズイと気がついてくる。そこで、「アイスクリームを食べたい」とそっと言うやり方に変えていくわけだ。「食べたい」という主張をセンテンスの終わりにそっと言うことで、主張を和らげられることを賢くも悟っていくのだろう。
西欧の言語、中でも、力関係の上で、それらを代表する英語のSVOの順序と日本語のSOVの順序が違っていることが、我々日本人が英語を学習する上での最大の障害となっている。順序が違うことは処理の手順が別ものになることを意味し、手順の違いは処理装置に多大の負荷を掛けることになるからである。
英語を扱う時には頭の中の処理装置の手順を切り替えればよいだけ、ともいえるのだが、実は心理的な抵抗感がその切り替えを妨げる。波風立てないようにそっと言う日本文化が身に染み付いているので、それが心理的抵抗となって現れてくる。幼児のように、あたりかまわず「僕、食べたい、アイスクリーム」と叫ぶことが恥ずかしいわけだ。*この「恥ずかしい」という日本文化については、いずれ語りたい。
一方で、西欧の人は、特に英語を母語とする人達は、「僕、食べたい、アイスクリーム」と叫んでくれないと、意味を理解できない。さらに、厄介なことに、「アイスクリームを食べたい」と、サブジェクトを抜いて語られると、ますますもって、この人は何を言わんとしているのか、まったく理解できないことになる。サブジェクトを抜いて語ることは、動詞を末尾に持ってくるのと同じく、露骨に言わないための手段の一つであり、同時に、動詞を末尾に置くことで、サブジェクト抜きの表現が成立しやすくなるという関係にある。
英語で自分の意思を表明したり、状況を説明したりするときには、日本文化の華である「他人様と共に穏やかに生きる」心性を一時脇に置いておき、幼児になったつもりで「僕、食べたい、アイスクリーム」叫ぶことが要求されることになる。
(05.9.3 篠原泰正)