石油の呪い
石油の消費を諦めることは、石油に基づいて一大発展を遂げてきた工業化文明を諦めることを意味する。これはまだまだ続く下り坂の途中で転換するしかない事である。
1985年を頂点としての、長い長いこの下り坂は、これまでのサイクルの一環であるとともに、これまでの基盤を捨てて、新しい生き方を見つけていく坂でもある。見つかれば、上昇を開始することができる。
一つの社会、例えば日本社会がどのような状態にあるのか採点する基準はある。まずカテゴリーを三つに分ける:政府、経済、民衆。
政府(地方政府を含む)の在りようの評価基準は、国民の(地方政府の場合は県民の、市民の)ための政策を行っているかどうかにある。国民一人一人が安心してそこそこ生活できるようにさまざま手配しているかどうかが基準である。この基準に基づけば、戦争を行う政府は最低ポイントである。安心生活どころか、戦場に狩り出したり、銃後にいても空襲でやられたりするのだから、最悪の政府となる。
可でもなく不可でもない水準をゼロに置いて、プラスを5段階、マイナスを5段階評価にすれば、国民全体を巻き込む戦争をする政府はマイナス5である。今現在はどうであろうか。格差社会をどんどん広げている現在の政府はまずまずのゼロ水準からどんどん目盛りが下がり、既にマイナス3ぐらいまで落ちているのではないだろうか。
経済の評価基準はなんだろうか。人間が生きていく上での必需品をせっせと作り出しているかどうかだろう。例えば、食べるものがなければ生きていけないから、農業が健全であるかどうかが最大の評価ポイントになる。食糧の自給率が4割を切り、農家の経営がますます苦しくなる、跡継ぎもいないという状態は、限りなくマイナスの底に近い。また生きていく上で無用の物を大量生産し大量消費している経済社会も、マイナスの評価点をつけざるを得ない。
さらに、安心して働くことができているかどうかも評価ポイントである。リストラにおびえ、短期雇用契約の下に、安い給料で常に明日に不安を抱きながら働いている人の数が増え続けている社会は、当然大きくマイナスに振れている。
われわれ民衆の評価基準はなんだろう。一番の基準は「連帯」の心をもっているかどうかだろう。つまり、他者を思いやり、助け合いながら生きているかどうかだ。明らかにこの評価ポイントは下りっぱなしである。
また、自分の存在と仕事に誇りをもって(尊厳という名誉心を持って)、知性と精神力を鍛えているかどうかも大きな評価ポイントである。これも下りっぱなしである。
この20年、日本は坂道を転げ落ちているという評価は、以上の評価基準に照らしてのものである。誰でも、冷静に観察すれば、その転がり落ちる様相のすさまじさに圧倒されるだろう。
アメリカ社会を筆頭に、欧米社会(一部北欧諸国の例外はあるようだが)の転がり落ちていく速度もすごいけれど、日本社会も後を追いながら、見事に同期している。すなわち、工業化先進諸国は、上に述べた三つの分野のいずれにおいても、評価点は大きくマイナスの度合を深めていることになる。
このような有様だから、地球温熱化を防ぐ手立ても、気象異変という嵐の対策も、石油が入手し難くなるという一大脅威にも、何一つまともに対策が立てられていない。対策を立てるつもりもない。嵐が来るという予言に耳を貸すことなく、今日も明日も、のんびりと川で鮭を取り山でどんぐりを拾って暮らしている縄文時代の人々と変りはない。
石油のおかげで、われわれ先進工業化文明社会の人間は痴呆化してしまっているのだ。石油の呪いを蒙っている。
(07.12.21.篠原泰正)