特許明細書の在る風景(3)
私は日本の某メーカーに、奇跡的に、20年以上勤めたが、その最後のステージは、社長直属の技術参謀部風の部署で迎えた。この部署はその役目柄、技術関連のテーマで経営会議が行われるときには、事務局をおおせつかっていた。そのため、奥の院での会議に私も議事進行やら何やらで出席し、貴重な体験をさせていただいた。
会議でいたく感心したのは、いよいよ結論を出さなければならない状況まで至ると、絶妙のタイミングで、テーマとはまるで関係の無い話題を持ち出す重役さんが(一人ではない)出てくることだった。その関係ない話が出されると、社長以下出席者のほぼ全員が、あたかも救われたようにその話題に飛びつき、会議はにわかに盛り上がる。そして、そうこうしているうちに会議時間は果て、本件は次回まで持ち越し風の、決まったのか決まらなかったのか、結論は限りなく玉虫色に輝くことになる。議事録を作成するのも事務局の役目であるから、これがたいへん。本日の会議がどうなったのか、まとめようにもまとまらず、なにやらもっともらしく書類をでっち上げる破目となる。バブルは崩壊し始めていたが、それまでの元気を継承して、まだまだイケイケの平和な時代のことであった。
結論が出たのかどうか、限りなく霧の中に置いておくのは、日本文化の慣習の一つでもあり、これは特許明細書にも現れている。
例えば、発明技術の詳細説明である実施例の記述において、延々と従来機(先行技術)の構造やら機能が述べられ、読む方がいい加減くたびれたところで、ようやく「本発明」の核心に近づく。やれやれ、ようやく8合目まで来たか、これで全部が見渡される、と一息つくと、ドッコイ、そうは問屋は卸してくれず、肝心の発明部分は、なにやら難しい言い回しに溢れ、あろうことかここでもまた「請求項」の記述がコピーされていたりしている。しかも話はあたかも時間切れの如くはしょられていて、最終ページがきてしまう。発明の本丸に迫ろうとしているとき、突如煙幕が張られて、石垣も見えねば天守閣も霞んでしまうことになる。
読後の感想は、かつて私が書いた経営会議議事録を読むが如く、何が決まったのか判然としないままで終ることになる。
発明の権利(特許権)は頂くが、本発明がどのようなものかは、あたかも日本文化の極意である中間色の、あるいは墨絵の如く霞んだ風景の中に溶け込んでしまっている。この霞ませる「技法」は感嘆すべき腕前であり、さすが長年鍛えてきた人は違う、とおそれ引き下がるしかない。これが歌舞伎なら、大向こうから、「よう、弁理士成り駒屋!」と掛け声が掛けられるほどのできである。
特許明細書を、発明技術を開示した技術仕様書と読もうとするから、霧の中に放り出されて頭に来るのであり、これはテクノロジーの世界ではなく、日本伝統の文化芸術作品とみなすべきなのだろう。日本の伝統文化の華なのかも知れぬ。経営会議もその議事録も特許明細書もすべては霞の中にぼんやりと浮かんでいるわけだ。ニッポンバンザイ!
(07.11.28.篠原泰正)