製造業において、投入したお金の見返りを大きくする方法の一つに大量生産・販売がある。誰でも知っているところだ。
この方法の先駆けは1930年代のT型フォード(model T)を生み出したヘンリー・フォードであると私は理解しているが、広く普及したのは戦後になってからである。
もちろん戦争中にも生産の効率を挙げるために、アメリカ軍は飛行機から軍艦・船舶に至るまで、機種を絞って同じ形のものをドカドカ作ってきた。帝国海軍が改良に次ぐ改良でさまざまなタイプの駆逐艦(世界最優秀と言える)を送り出している一方で、アメリカ海軍は同じ形のそれをパンを作るようにこしらえてきた。輸送船もしかりで、リバティー船と呼ばれる、製造に都合の良いように直線主体の味も素っ気もない船を無数という感じで造っていた。これらはもちろんできるだけ合理的に戦争を遂行するという目的を実現したもので、ここで述べようとしている商用の大量生産の話とは異なる。
大量に作れば作るほど、製品1台あたりの開発投資は小さくなる。投資効率はそれだけよくなることになる。もちろんそれだけでなく同じものを大量に作れば、部品の購入単価も安くなるから、1台あたりの利益が増え、お金を出した人も「大満足」となる。
この大量生産を可能にした縁の下の功労者は言うまでもなく安い石油である。石油化学材料のおかげで工業製品の原価が劇的に下がり、生産に必要な電気代も安くなり、作った製品を遠くへ運ぶ運賃も安くなった。安い石油さまさまである。
一方で、大量に生産すれば大量に販売しなければならない。同じものを大量に売るためには、売り先は当然、特別の人(お金を持っていて趣味にうるさい人)相手ではなく、大衆と呼ばれる無数の顧客となる。ありがたいことに、大衆という存在は趣味趣向が「似ている」ので、そのつぼにはまればどんどん売れることになる。またどんどん売るために、コマーシャルでこれでもかこれでもかと宣伝して「洗脳」する策も採用される。
結果としては、どうでもいいような、つまらない、鋭い感性には耐えられないような商品が社会の中に溢れることになる。
日本においては、この大量時代は1960年代の前半あたり、東京オリンピックの頃から始まったので、すでに40年以上の歴史がある。40年も大量生産品のシャワーを浴びていると、一つの「モノ」への愛着も感性もなくなり、そこに至るまでの時代はどうだったかも忘却のかなたに霞んでしまうことになる。行き着く先は「使い捨て」の感覚であり、「もったいない」という感性は外国の人に評価されるまで、自分たち日本人がかつて持っていたことさえ忘れてしまうまでになる。
安い石油のおかげで、安価で便利な大量生産品にうずもれて生きてきたけれど、その石油が安くなくなると、この大量生産・販売の時代も終らざるを得ない。さあ、どうなる。私のように、少なくとも大人になるまでは、野球のグローブから自転車まで、鉛筆からノートまで、大事に大事に使ってきた経験がある人間は、すでに一まとめに高齢者に属する。国民の大半は、使い捨てに慣れて、今日も明日もこの状態が続くと信じて疑わずに生きてきた。突然、昔に戻ろうといわれても何のことかも分からないであろう。良い品を長く大事に使う感性も育てていないから、今更感性を磨こうといわれてもどうすればいいかも分からない。
しかも、大量生産・販売をベースにした国全体での「経済成長」という概念も昨日のことになろうとしている。これからの経済は「成長」するのではなく、毎年「縮小」していく時代が始まろうとしている。
暑い夏の夜に聞く話としては最適ではなかろうか。これは背筋も凍る話なのだから。
(07.08.10.篠原泰正)