もうずいぶん前のことになるが、外国の通信社の東京特派員であったあるジャーナリストが、日本に関するエッセイの中で、嫌な言葉として「ガイジン」を挙げていた。ガイジンを「外の人」と受け止め、なにやら差別されている感じが嫌だったようだ。これは、もちろん、この記者の誤解で、「外人」は「外国人」を縮めているだけで、何も「外れ人(はずれびと)」と差別しているわけではない。
しかし、この記者の受け取り方にもっともな点もある。日本人には、日本ムラ以外の人に対する時に、いまだに同じ高さの地面に立つ人として接することができない人が多い。これは高学歴の人とそうではない庶民との区別なく見られる現象で、なぜかは不明ながら、対等に付き合える少数派とそうではない大多数に分かれる。
同じ高さの地面にいると受け止められない場合は、ひたすらあがめるか、ひたすら軽蔑するかの極端にぶれるのが特徴である。例えば、幕末の開国時には、極端な「攘夷(外国の野蛮人を撃ち払う)か西洋万歳であり、その後日露戦での勝利(うわべだけ)で俺達はスゴイと夜郎自大になり、日英同盟で大英帝国からお仲間と認められたと有頂天になり、その内に、雲行きが怪しくなると、いつの間にか「鬼畜米英」となる。その「鬼畜」にぼこぼこにされて敗戦を迎えると、今度は「デモクラシー万歳、アメリカ万歳」である。その後苦労の末にものづくりで世界のトップに並ぶと「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と浮かれたが、浮かれすぎてのバブルの後は意気消沈して、(アメリカさんのいうとおり)これからは「グローバリゼーション」だ、となる。
このジェットコースターを見ていると、とてもじゃないが、知的レベルの高い民族とは思えない。戦後、マッカーサーが日本人の知力は12歳と放言したのもいたしかたなし、と思えるぐらいの幼稚さが現れている。
なぜこうなるのか。じぶんたちより高度の文明に出会うと途端に眼がくらみ、何でもおっしゃるとおりとなり、自分達より文明のレベルが劣るとみなすと、途端に居丈高になる。(アジアの人々への態度はいまだにこの癖が抜けていない。)天平・奈良時代に中国に眼がくらみ、幕末には欧米に眼がくらみ、先の敗戦後はアメリカに眼がくらんだ。
しかし、西洋に対して眼がくらまなかった時代もあった。戦国時代である。このときは相手が主にスペイン・ポルトガルという国であったが、文明のレベルは同じ程度であったので、眼がくらむ必然はなかったといえるし、当時日本を支配していたのは武家衆であったから、自分と相手の力量を客観的に比べることができる姿勢と知力と気力をもっていたからであるともいえる。
「ガイジン」に対する上か下への極端なぶれは、学歴には関係なく、以下のような特徴を持つ人々に生じる現象ではないだろうか:
(1) 己の存在に誇りを持つ「名こそ惜しけれ」の精神を持たない人。つまり、自分の存在を学歴とか肩書きとか家柄とかの形式にしか見つけられない人。
(2) 基本的に教養、特に歴史、文学、社会の分野での基本的な教養に欠けている人。教養がないから世界の人に対して、同じ床の上で対等に話せない。ぺこぺこするか、椅子にふんぞり返るかのどちらかの態度となる。
(3) 自分および自分が属する小さな「ムラ」の利益しか頭にない。つまり、普段から小さな宇宙に暮らしているから、外の世界の人(ガイジン)とどのように付き合っていいかまるで訓練されていない。(礼儀作法が分らない田舎ビト)。
(4) ムラの外のちょっとえらそうな人を無暗にありがたがる、あるいは「お上」をおそれ奉る、(そのくせちゃっかり利用する)人々が、江戸時代以降連綿と今に至るまで存在する。(これは自分とムラの利益を守るための手段でもある)。この人々は、相手が少しでも自分より(なにかが)低いと感じると途端に居丈高になる。例えば、東南アジアで顰蹙をかう日本人はこの手の人である。
(5)接する相手によって態度をがらりと変える人。例えば社長にはぺこぺこ、部下にはふんぞり返る人。この種の人は、相手が「白人」の「ガイジンさん」だと無暗にぺこぺこするが、相手が「フィリピン人」となると途端に見下ろす態度になる。これはその人の個性であろうか。
この10年ほど、「白人のガイジン」(つまりアメリカさん)に無暗にぺこぺこする人々(政官財の)によって、日本はめちゃくちゃに引っかきまわされてきている。多分、アメリカさん万歳とすることが自分達(自分および属する小宇宙)の利益になるからそのようにしているのだろうけれど、「アメリカさん」がこういっている、と言えば、そうかと納得する人々が大勢いる、ということが、より基本的な問題である。多数派の日本人が、いつ「ムラビト」であることを脱することができるのか、あるいは永遠にそれは無理な話なのか。世界的な荒波が打ち寄せ始めている今、正直、私は心配でならない。
(07.07.23.篠原泰正)