人は、自分が属する集団の中で、事態がなにやら身の危険を感じるほどおかしくなると、見なかった、聞かなかった振りをして沈黙を守るようになる。これは世界中どこでもそうだろうけれど、日本のように、その文化が「ムラ」に根ざしているところでは、特に顕著である。
見ざる・聞かざる・言わざるを決め込むしかない環境もある。終戦までの日本やドイツの社会がそうであった。口を開いて何ごとかを批評するだけで命に関わる社会では、人は沈黙するしかない。そのような環境でもまだ発言できる人はよほど剛勇の人であり、めったにいるものではない。
ムラの中の生活で息苦しいのは、例えば国家権力という「お上(かみ)」によって、国のやり方を非難する言葉を口走ったが故に監獄にぶち込まれれるのならまだしも、自分の周りの人、すなわち同じムラの仲間からも非難される場合があるからである。戦前の「非国民」というレッテルは、お上からではなく、そのほとんどは近所の人から投げつけられたものであった。
今いる会社がそのようなムラであれば、例えば会社存続と発展のためにある改善提案をしようとするとき、「お上」(会社上層)から危険人物としてブラックリストにのせられ、リストラや左遷の憂き目に会うリスクを考慮するよりも、「余計なことをしてくれるな」という直属の上司や同僚の非難の眼の方が怖い。毎日顔を合わせる職場で誰からも相手されず孤立する(村八分にされる)恐怖は、想像するだに恐ろしい。
明らかに品質不良の製品が市場に出て行くのを黙って見ていることはつらいことではあるが、それを指摘して職場を失うリスクを考えれば、黙ってみて見ぬ振りをしているのが一番という選択となろう。更に、「本当のことを言った」お蔭で、仲間からつまはじきにされる恐怖(毎日の職場が地獄になる)を感じれば、ともかく何もいうまい、という判断になるのも理解できる。
「リストラ」や「成果主義」は、いわば物言えば唇寒しの全体主義国家による強制のような効果を持つが、それは一人一人に直接関わるだけでなく、「非国民」の連帯責任を取らされる恐怖によって、仲間の行動も縛ることになる。過激な行動はまず仲間内から嫌われることになる。それは何も感情の問題ではなく、そのような仲間が居ることが自分の身にもマイナスとして降りかかることを恐れるからである。「リストラ」と「成果主義」という二つのダンビラを会社の経営層(場合によれば株主から強要された)が振りかざしたとたん、その会社の中から笑い声は消えてしまい、このままでは氷山にぶつかる、こんなやり方していてはアカンと多くの社員が感じていても、誰も何も言わず、下を向いて黙々と与えられた作業をこなしているだけの風景がつづくことになるだろう。
(07.07.13.篠原泰正)