前回の朝日新聞の寄稿に関するコメントを続ける。
(C)「大学や国立研究所の研究者のポストは限られている。会社は必ずしも融通の利かない27-28歳の博士を雇おうとはしない。米国でも大学や国立の研究所のポストが限られていることは日本と同じだ。違いは企業の博士号取得者の需要が多いことである。米国では多いのに、なぜ、日本では少ないのか。これは教育制度の違いによる点が大きいと思われる。」
9)「必ずしも融通が利かない」は日本語文章としては成り立たない。「必ずしも融通が利くとはいえない」と文章としては書くべきところだろう。しかし、それよりも、問題は、企業が博士を雇いたがらない理由を、ここで「博士は融通が利かないから」とあげてしまうと、以下は、「なぜ博士号取得者は融通が利かないのか、利くようにするにはどうすればよいか」と論点を展開していかざるを得ないところにある。
10)ところが、企業からの需要の少なさを教育制度に求める展開となっている。従って、「融通云々」の言葉はまったく意味のない記述が挿入されていることになる。
(D)「日本では修士課程になるとほとんどが研究を続け、文献の調査の仕方や実験の方法を学ぶ。企業に入っても即戦力として修士は大いに歓迎されている。一方、米国の修士は1年と短く、授業が主で研究は行わない。博士号を取るための一つの過程にすぎない。」
11)「ほとんどが研究を続け」が意味不明である。続ける、というからには、その前の過程、すなわち学部学生のときから継続して、と推測することになる。しかし、その後の文章を読むと、「研究」と「授業」が対比されているので、ここで表現したかった事項は、修士の学生はそのほとんどが「研究」に携わって授業は受けない、あるいは、修士の学生は誰もが、時間の「ほとんど」を研究に当てている、のどちらかとなる。
12)ともあれ、日本では修士取得の学生は「研究」の経験があるから企業で歓迎されている、という事実が述べられているようだ。
(E)「私は若い頃、企業の研究所に16年間勤め、約20人の研究員を部下に持ったことがある。当時の工業高校の卒業者は大学卒に負けない優秀な人が多かった。しかし大学卒との違いは、英語の文献を自分で調査することが難しかったことである。大学卒と修士課程修了者の違いは、修士は手取り足取り教えなくとも自分で文献を調べ、指示された実験ができることだった。」
13)博士号取得の学生の話がこの寄稿のテーマであるはずなのに、ここでなぜ「工業高校卒と大学卒(学部卒の意味であろう)の違いが話題に挙げられているのか、読者はまったく理解できないであろう。話があちこちするので、読むほうも大変である。紙面も限られているから、ストレートに中心テーマに絞ってもらいたいところだ。
(F)「それでは修士と博士の違いはどうか。博士はある分野の知識や経験を深めていることは確かだが、かえってそれにこだわり、別の分野の研究や開発をすることを嫌う傾向があった。そのうえ修士に入るには学科試験に合格しなければならない。一方、博士は通常は試験なしで進学できる。これでは企業が高い金を出して雇いたいと思わないのは当然であろう。」
14)ここでは、博士が企業で歓迎されない理由を検討されているようだ。一番目の理由に挙げられているのは、博士は自分の専門分野以外のことをやるのを嫌う傾向があるということだが、なんだかずいぶん根拠が薄い理由である。二番目は、試験無しで博士課程に進めるから、企業は歓迎しない、というハチャメチャな理由が挙げられている。これでは、博士課程の学生は無試験で入ってきた「馬鹿」だからだめといっているようなものだ。
15)この寄稿のテーマは博士号取得者の就職が難しい、という一般事実である。そして、それは企業が博士を歓迎しないから、という「事実?」を強引に持ち出してきている。しかし就職できた博士とできない博士の比率が示されていないので、企業が本当に歓迎していないのかどうかは不明のままである。もしかしたら、企業は必要な数だけの博士は喜んで採用しているのかもしれない。
16)事実関係の分析ができていないから、「なぜ」の分析は、自分の経験と感性だけに基づく「感想」であり、「試験がないから」という根拠不明の原因分析となってしまっている。
(G)「米国では自分で文献を調査し、実験することの出来る即戦力になる技術者を得ようとしたら、博士号取得者を雇う以外ない。更に博士号を取るためには、数人の教授による厳しい口頭試問があり、学力も保証されている。」
17)米国の博士過程の事実が比較のために持ち出されているが、無試験で博士過程に進めるという話と、博士号取得のためには厳しい試験がある、という話は同列には並べられない。並べようとすれば、ここにいたるまでに、日本での博士号取得のプロセス(試験の有り無しなど)を説明しておかねばならない。範疇の違う事項を平気で比べたりするのは、論理的展開に弱い、あるいは無神経である証拠といえるだろう。
(H)「博士も世の中の厳しさを知っているから、自分の専門にこだわらず、新しい分野の仕事も進んで行う。」
18)”講釈師、見てきたような嘘を言い”の類で、ここで事実として述べられてる事項は、誰もが認めている話のように記述されているが、この寄稿のように、問題を提起し、解決策を提案する論考では、大いに慎むべき書き方である。前に日本の研究所での自分の経験で、「こうである」と断定しているのだから、この米国での例も、聞いた話とか、自分が米国企業にいたときとか、断定の根拠を示すべきところである。
(続く)
(07.07.06.篠原泰正)