これからしばらくの間、「インテリジェンス」の話をする。
日本の歴史は、以前にも書いたが、公家と武家による支配権の取り合いで綴られており、さらに言うならば、武家は結局お公家衆に取りこまれていく繰り返しを示している。
武家、すなわち武門の人々の勢いが強かったときには、「インテリジェンス」とそれに基づく「論理思考」が表に出てきている。論理的思考の出発点は事実の把握、すなわちインテリジェンスであるから、この二つは切り離しては考えられない。
先ず源平争乱のときであるが、その一番手の平の清盛は、その子供や孫達はお公家衆化してしまったとはいえ、自分は部門の棟梁の目と考えを失わなかった。福原(神戸)への強引な遷都も、一門の公家化を押さえるためもあったろうが、何よりも、貿易国家、特にお隣の大国「宋」との貿易の拡大のためであった。つまり貿易に目をつけるだけあって、海外の出来事への関心、その情報の入手に熱心であったのだろう。
この平家を倒し、日本で初めて武家政府を打ち立てた源の頼朝とそのバックの北條一門は、海外に国を開く発想まではもっていなかったとはいえ、国内の状況把握は的確なものであったようだ。幕府開設の頃、白川の関の北は平泉に本拠を置く藤原一門の別の国であった。従って、その別国を滅ぼすのは最初から課題であり、情勢を探りながらそのチャンスを待っていたといえよう。弟義経が平泉に逃げ込んだのは、攻め込む口実を作る絶好の機会を与えてくれるもので、大いに喜んだことであろう。また、南は遠く薩摩まで守護・御家人を送り込み統治に成功したのは、並々ならぬ正確な情報の把握があったといえよう。御家人の全国配置は、全国各地からの情報が即座に入ってくる情報網の完成でもあった。元寇の役の時も、対馬の守護宗氏を通して中国大陸の情勢は事前に相当に察知していたのではないか。
インテリジェンス力が高まったのは、次いで、戦国時代であり、信長と秀吉を先頭に、伊達政宗やキリシタン大名のインテリジェンス力はたいしたものであった。欧州の大航海時代に対抗できるだけの海外知識を得ていたし、武門ではないが堺の今井他の大商人達の情報網もたいしたものだ。
徳川幕府による鎖国で200年眠っていた後、幕末は、再びインテリジェンス力が上がったときであり、公家化していなかった下級武士・郷士層を中心とする人々の敏感な反応と動きのおかげで、独立国を維持することができた。明治維新の後の急激な翻訳本の出現は、彼らの危機意識の反映でもあったろう。西洋の事情を知らなければやばい、との意識が翻訳本の洪水となって現れたのだろう。しかしそれも1905年の日露戦争までで、その後太平洋戦争の敗戦までは、異常なレベルまでインテリジェンス軽視のときであった。武門の人々が公家化していった40年である。
そして、戦後である。敗戦の復興を担ったのは製造業の人々であり、彼らは武門の人と呼んで差しつかえないであろう。アメリカを中心としての西洋事情にもう一度敏感になり、工業化のレベルを追いつき追い越していった。しかしそれも40年で幕を引く。
その後今に至る20年は、お公家衆の支配が復権して、同時にインテリジェンスを軽視する姿勢も復活することになった。
この20年、国家の経営を担う人々から企業の経営を担う人々まで、そして民衆まで、日本を挙げての知性の劣化は、インテリジェンス力の劣化の裏返しである。状況の把握を怠れば、考えなければならない課題も出てこない。課題がでてこなければ、対策を考える必要も無い。対策が考え出されなければ行動もそこには無い。国を挙げて、焦点の定まらぬうつろな目をして、口を半開きにしてボウとしている顔つきになってしまっている。武門の人々はパージ食らって地下にもぐってしまったのだ。
(07.06.09.篠原泰正)