小学生の頃の私のモノづくりの成果は、凧、ゴム動力の飛行機、モーターで動く電車、木を削ってのソリッドモデル飛行機の四つに代表される。いずれも原材料からの手作りで「設計図」も自分で描いたことは誇れるだろう。電気モーターもコイルを巻いて自作できた。
しかし、考えてみると、これらはいずれも「形」あるものを作り上げるモノ作りで、自作した割には飛行機や凧の流体力学はさっぱり頭に入らず、なぜ飛行機は飛び、凧が揚がるのかを考えたことはなかった。電気モーターを自作した割には、電気の原理はわからないままで今に至っている。つまり、いつでも「何か」を削る事ができるように、ポケットの中に折りたたみの「肥後の守」ナイフを常備していたことに示されているように、職人風モノづくり屋であったわけだ。
自然科学(natural science)は目の前の対象物である自然物を眺めて、これは「何から」構成されているのか、空気より重いのに「なぜ」これは空中に浮かぶのか、などなど、「なぜ」から生まれたのであろう。そうみると、私は、すでに子供の頃に、自然科学系ではない、学校でいえば理科系ではない傾向がはっきり出ていたと思われる。理科の時間に空気は水素と酸素から構成されている、と習っても、どうにもその実感が湧かなかった。このようなテーマには興味がなかったのだろう。
日本人も、私のように、自然物を眺めて、「なぜ」、「なぜ」と問いかける習性、あるいは頭の構造を持ってこなかった。得意とするところは、対象である自然物と心を通わせ、己(おのれ)の情感を表現することにあった。対象物を「分解」してみようとは思わなかった。
このような日本人が本格的に「自然科学」に取り組むようになったのは、1800年代初期からの「蘭学」、すなわちオランダ医学の学習からであろう。そのときからまだ200年にも満たない蓄積となる。外のものには何事も興味を持つ民族であるから、蘭学以降、「自然科学」は山ほど日本に入ってきたが、どこまで「土着化」したのだろうか。
自然科学への取り組みが、「モノ」に凝集して現れたときには、なるほどたいしたものだ、と世界を感心させる成果となって示されてきたが、その成果を言葉で表現するとなると、とたんにみすぼらしいことになる。自然科学の「方法」は身に付けたが、それを表現するための言語の改善は放置されたままだったのではないか。
人は言語でもって「考える」のだから、表現する言語が整備されていないとなると、どこまで「自然科学」の原理が日本人の中に根付いているのか、いささか怪しい雰囲気がある。
自然科学の「なぜ、なぜ」から、あるものの構成要素を分解していくと、遂には原子(あるいはそれよりももっと根源の要素)や遺伝子にまで行き着く。ここで止めておけばよいのだが、「なぜ」を掘り下げていけば、この原子と原子を融合させるととてつもないエネルギーが生まれることを発見したり、遺伝子と遺伝子を組み替えて(modifiedして)別のものを作り出せることを発見したりするところへ行き着くことになる。神を恐れぬ所業が生まれてくる。
論理をとことん追求していくと、人間もそのひとつである自然物を破壊することになりかねないことは、すでに1945年の結果以来明らかになった事象である。日本人のように、自然物との交流を通しての」情感を文化の基盤に置いている民族とは異なり、「論理」に基盤を置いている「西洋」の限界が1945年に示された。
自然科学の境界線、これ以上は人間として足を踏み込んではいけないという境界線を引けるのは、もしかしたら、頭では「自然を対象物と眺める科学」、心では「自然と共に生きる哲学」を有している両生類の如き日本人しかいないのではないだろうか。
このことを明快な日本語文章で表現できれば、世界からたいへんな注目を浴びることになるのだが。
(07.05.24.篠原泰正)