日本の特許明細書を読むのは、私にとって苦痛である。何が説明され、何が権利として主張されているのか理解ができない場合が多いので、いらいらするだけでなく、「これが私の発明だ」と明確に書かずに、なにか隠したような不透明な態度が感じられるのが嫌なのだ。
われわれ日本人は、世界の中で生きていくには、言語障害というハンディを背負っているので、「舌先三寸」とか「口八丁」という技を使えない。この技が使えない限り、国と国の駆け引き(外交)に弱いのは当然であるし、お金を転がして稼ぐ商売に弱いのも当然である。さらに、爪に火をともす(灯す)ようにしてためた(貯めた)お金も、口八丁の「ガイジン」に巻き上げられるということにもなる。私の乏しい経験から見ても、アングロ・サクソンやユダヤの人たちに、とてもじゃないが「口」で勝てるわけがなく、その「口」の延長線上に構築されているシステムに対抗できるわけがない。
それではどうすればよいのか。答えは簡単で、へたな(下手な)小細工をするのはやめて(止めて)、率直に、開放的に、自分をさらけ出せばよい。
また、戦後40年の間、モノづくり(食べ物づくりも当然この中に入る)に専念してきたのは、意識せずに採用した見事な戦略であった、といえる事からも分るように、あまりしゃべらなくともよいモノづくりに打ち込むのが、これからの世界においてもとる(採る)べき方向だろう。
特許という世界においても、「これが私の発明です」と明確に説明し主張していくのが、権利を守り製品を守る唯一の方策である。それしかない。小細工をろう(弄)しても、たたき合いになった時にはどうせ「ガイジン」に勝てるわけがないのだから、愚直に、オープンにさらけだして、正々堂々と戦えばよい。そう、明治大学のラグビーのように、愚直にひたすら「前へ」と戦うのが、勝てる唯一の途であろう。
敵に不意打ちをくわせようとか、足をすく(掬)おうなんて下卑た細工はやめて-そういうことをしていると顔つきまで卑しくなります-、ひたすらオープンに「前へ」進むだけでいい。
多くの日本人の血の中には、ストレートな武人の心がまだ消えないで息づいていると思われるので、オープンに行動することは、それらの人には少しも難しい話ではない。
正直に隠さずさらけ出せば、世界の人が好感と尊敬の目でもってわれわれに接してくれるだろう。アメリカの裁判所で、陪審員制のもとで特許を争っても、オープンであれば陪審員をみかたにする場合もありえるだろう。
小細工を弄せず、オープンにする心があれば、それだけで日本語文章は相当に明快なものとなるだろう。
(07.04.06.篠原泰正)