この一週間で、日本の特許明細書を、大手メーカーのそれを、ランダムに取り上げて20件ばかり、集中的に目を通した。
鈍な話であるが、ようやく気がついたのは、日本の特許明細書はリーガルドキュメントであり、テクニカルドキュメントではない、ということだ。より詳しくいえば、技術の話を法律屋が書いているドキュメントである。だから、私を含めて、普通の人が読んでも分らないはずである。
私は、特許仕様書というものを、米国企業が出願・取得したそれを何十・何百と読むことで、初めて理解した。会社員として現役の時は、ビジネス社会全体で特許というものがまだそれほど重視されていなかったこともあって、そこでの情報を知らないで済ましても、どうということはなかった。もちろん研究開発・設計部門の技術者はそんなことはなかったであろうけれど、私の商売は商品企画であったので、特許部から毎月回覧でまわってくる、机の上に積み上げると高さ60センチぐらいになる特許公報(紙の本)は、1ページもめくることなく、隣の同僚の机に水平シフトしてしまっていた。
アメリカの特許仕様書をたくさん読んだあと、特許法とかなんとかは、アメリカの特許弁護士のビデオ講義で勉強した。これで大体、特許というものが分った、という感じになっていた。米国の特許仕様書は、技術文書であるから、現役の時の仕事柄、英文での技術レポートは読みなれていたので何の抵抗感も無く読むことができた。何も知らないで、なんとなく、特許と言うのは難しそうなものだ、という印象は間違っていたことがすぐに分ったわけだ。
しかも、技術屋さん一人が書き飛ばす(社内の)技術レポートと異なり、出願するだけあって、きちんと書かれているので、私が経験した英語文章としてはもっとも理解しやすいものの一つであった。
その後、日本の特許明細書を読んで、ぶったまげたわけだ。これはいったいなんだ、と。課長とか部長とかをしていた現役のころ、部下がこのようなレポートを私に持ってきたら、床にたたきつけて「馬鹿ヤロー、全面書き直し」、と突き返したであろう。(現役のころ、私は仏のなんとか、といわれたぐらいだから、実際はこんな言い方はしなかっただろうけれど)
お役所の文書は別とすれば、技術レポートも事業の契約書もすべて含めてのビジネスの文書としては、この国内で溢れている特許明細書の多くは、文書としての価値がない。文書は物や事や考えを「伝える」ためにあり、伝えられない、つまり読んだ人が意味を理解できない文書は一銭の価値もない。ガスは入っているのに火がつかない百円ライターのようなものである。
今回、このごみ文書をまとめて読んで、ようやく気がついた。国内特許明細書の多くは、技術というものに基本的に土地勘のない法務屋さんが技術を語っている、ミスマッチの結果だと。文体を見ても、戦前のお役所(軍部をふくむ)の書類のごとくで、なんとなく懐古趣味にひたれそうな雰囲気がある。
特許に関しては、アメリカで学んできた帰国子女のごとき頭になっているから、その延長線上で国内を眺めたものだから、衝撃はより強かったのだろう。
それにしても、ようやってまんな、こんなあほらしいこと。
(06.12.06.篠原泰正)