子供の頃、私は日本語のバイリンガルであった。一歩家の外に出れば「東京弁?」の世界であり、家の中では関西弁を使っていた。父は関東の人であったが、家の中で顔を合わすことはめったになかったので、家の中の言語は、神戸生まれの母の言語が支配していたわけだ。まさに「母語 mother language」である。
技術とビジネスの世界で、あるいは自然科学と社会科学の世界において、事実を明確に描写し、問題点を正確に指摘し、その対策案をはっきりと記し、その展開計画を明確に述べて一つの文書を形づくるためには、他言語、特にゲルマン系とラテン系の欧州言語とお隣の中国語との互換性を実現したオープンな日本語「Open Japanese」を用いるしかない、と私は考え、その実現を提唱してきている。
すなわち、僕らは、文化に密着した母語としての日本語と、世界との互換性を意識した、ある意味で外国語を頭で修得するのと同じようにして身につけた第2日本語の二つを使い分ける、日本語のバイリンガルになろうよ、ということになる。
50年前、日本の商社のビジネス文書は、まだ、漢字混じりのカタカナ文章で作られていた。戦前から続く公文書の書き方と同じといってしまえばそれまでだが、この文章形態は、海外の支店とのやり取りがほぼ全てテレックス(telex)で行われていたためである。ファクシミリ(facsimile)が普及するにはそのあとまだ10年は要した時代のことである。テレックスはカタカナをローマ字に直して交信する。漢字の支援無しに、カタカナだけで綴られた文章が受信され、正確に解読されるためには、誤解を招きそうな記述は避けなければならない。文章は当然、簡潔明快に書かれていなければならないことになる。
明治維新で国を開いたとき、日本には、国民誰もが読んで分かる文章語が存在しなかった。もちろん口語においても標準は存在せず、それぞれがお国なまりで話す中で、コミュニケーションを取ることは大変なことであったろう。そこから、標準語というものを「人工的」に作り上げる必要が感じられ、東京の言葉を土台にして曲りなりにも完成された。この標準語化の先駆が吉原の廓言葉(くるわことば)であったことはよく知られている。
さて、文章の標準語は、夏目漱石を頂点として、小説などの文学の世界ではほぼ完成された。未完のまま放置されたままだったのが、行政、ビジネス、科学・技術の世界の文章である。欧州の自然科学・社会科学・人文科学の単語は、必死の努力でその大半が「漢語」に置き換えられたが、現象や原理・法則といった事実関係とそれに対する「考え」を的確に記述する文章の「標準」は手が付けられなかった。
行政、司法、陸・海軍、商社、製造業、それぞれの分野で、勝手に、少なくとも仲間内では通用する文章が用いられてきた。その多くは、遠く鎌倉時代に発する、平家物語や方丈記にみられる「和漢混交体」に源泉を持つスタイルであった。
今、知識と知恵を、国内において、世界において交換しあう必要性が、これまでのいつの時代以上にも増して高まっているときにおいて、特に基盤とする文化を異にする人々とそれらを交換する必要性が大いに高まっているときにおいて、どうしても、オープンな日本語が道具として必要となっている。
もっとも、オープンな日本語といっても、それほど大げさなものではなく、受け取り手である他者の存在を尊重し、何とか理解してもらおうとの配慮をもって記述すれば、誰でも相当程度までオープン性を実現できるはずである。
もちろん、作成する文書が、国内だけでなく、英語や中国語に転換されても発行されることが当初から明らかなものであれば、日本語で作成するときから、他言語への互換性を常に意識しながら文章を書き、同時に、文書の構成においても意識する必要がある。従って、制作者は、少なくとも一つ、相当レベルまで外国語に通じていることが必要となるだろう。なぜなら、相手のことを知らずに互換性を考えることはできないからである。
また、海外、特に欧米における文書にも多く接し、その構築の仕方に相当程度の理解が必要である。現物を見たこともないのに真似をすることはできないからである。欧米のそれが世界標準であるというつもりはまったく私にはないが、彼らがこしらえる文書のスタイルがもっとも普遍性が高いと、その実際の普及度から見て判断せざるを得ない。
国内だけへの文書であっても、少なくとも高等学校レベルの知性があれば、誰にでも理解できる表現と組み立てになっている必要がある。そのことを無視した文書は、明らかに差別文書であり、それが差別であると理解できない人は、公的な文書を作成する資格はない。自分の日記やブログの中だけで収めておいてもらいたい。
平明な文書がどれだけ流通しているかによって、その国なり社会なりの集団の文明の水準が測られるのではないか。
(06.8.16.篠原泰正)