私はいまだに国の健康保険と厚生年金の仕組みがよくわからない。社会保険事務所からもらってきたパンフレットを読んでもよく分からない。多分、もうドタマにウロが来ているのかも知れぬ。お上の文書の分かりにくさは定評があるところで、これを改善することは一朝一夕では無理であろう。永久に無理かも知れぬ。何しろ、意図して分かりにくく記述して喜んでいる人々が作っているのだから、わかりやすくなるはずがない。
生命保険会社、損害保険会社の契約書も読んでよく分からない。何しろ文字も極端に小さく印刷されているから、目が弱くなった年寄りにはムゴイ仕打ちである。お客が丁寧に読んで理解されると、多分、困ることが書いてあるのだろう。
日本でも、「明快な文書を作ろうよ」を展開すべきと思うのだが、目の前に聳え(そびえ)立つ障害の大きさを知っているから、とてもじゃないが突っ込む勇気が湧いてこない。
それでは、というわけでもないのだが、30年に渡って自分がそこで飯を食わせてもらったモノづくり分野だけでも「明快な文書をつくろうよ」に余生の三分の一ぐらい捧げるか、と割合本気で考えている。何しろ、これからの世界は日本人の知恵を必要としているのに、その知恵が形あるモノだけにしか表現できないのでは、まさに片手落ちである。せっかくの知恵が「Intellectual Property」あるいは「Intellectual Resource」として形づくられていない。
その知的財産の一つである特許を見れば、国内だけで毎年40万件出願されているといっても、日本人が読んで何が書いてあるのか分からない仕様書が”ほとんど”なのだから、これは「知的財産」にはなっていないと判定せざるをえない。普通の人が読んで分からない文書は「知的」な産物とはみなせないからである。
極めて普通の頭を持つ私が読んで分からない、技術の専門ではないから発明の内容が分からないのではなく、日本語文章として理解できない文章を、そのまま英語に翻訳したり中国語に翻訳したりしていれば、その結果がどのようになっているかは、たいして想像力を働かさなくても推定できる。中国語は私の理解の外だから「推定」するだけだが、日本から英語で出願されている特許仕様書はいくつも読んでいるから、これは推定ではなく、事実として言える。目の前にした”ほとんど”は、英語になっていない、文書になっていない。
発明の内容に関して価値を判定する力はないが、せっかくの発明が、与太郎の寝言のような文書で「破壊」されてしまっているわけだ。モッタイナイ。
誰がせっかくの発明(知恵の結晶)をゴミに変えてしまっているのか。
元の文書で、すなわち日本語で明快に記述されていなければ英語や中国語に翻訳のしようがない。従って、世界に日本の知恵を提供することもできないままでいる。
世界の人口の2%を占める日本人という集団の知恵を、今ほど世界が必要としている時代はこれまでにはなかった。それなのに、その日本人の知恵を世界に伝えることができない。特許仕様書はその知恵の一部の結晶に過ぎないとしても、世界のためにはなんにも貢献していないことになる。特許仕様書をわけの分からない日本語文章で仕上げる仕事は、一部のグループの「特権」なのだろうか。特殊なギルドの特権なのか。
もしそれが特権とされているなら、ギルドからその特権を取り上げて、特許仕様書をオリジナルの技術者の手に戻すべきであろう。発明の「知的財産(資源)化」を技術者の手に!一つの発明は明確に分かりやすく記述してこそ、権利が取れ、他者に対して権利を主張することができ、さらに、公開されたその仕様書が刺激となって更なる改良が世界のどこかで生み出されるプラスのスパイラルが働く。
また、発明そのものがすばらしく、明快に記述されていれば、誰かが買いたいと申し込んでくることもあるだろう。貧しい国からは、お金はないけれど自国の生存と発展のために、ぜひあなたの発明を使わせくださいとお願いされることもあるだろう。そのときには、ケチなことはいわずに無償で、あるいは超安いライセンス料で譲ったらどうだろう。われわれは世界の中で孤立して生きるわけにはいかないのだから、世界の人々と共に生きていくしかないのだから、世界の人々をファンにするしかないのだ。
まるで中世のギルドのような「特許仕様書作り」は、オープンな流通、オープンな知恵の流通に障害となるだけである。モノを作って世界に流通させることで飯を食ってきているのに、知恵だけは世界流通を阻んでいるのはどういうわけだろうか。いずれにせよ、21世紀の今には、珍しい仕組みではある。
(06.7.22.篠原泰正)