第2次大戦における日独英米の撃墜王の顔ぶれを眺めると、誰も彼も「常人」ではない。一部の例外を除いては、誰もが極めてストイック(stoic)であり、地上においては物静かな青年という印象がある。
帝国海軍の多分最高スコア保持者の岩本中尉はどう見ても幕末のニヒルな剣客の面影があるし、多分最高の名人西沢飛行兵曹長も有名な坂井中尉も、空中戦の奥義を窮めんとばかりのストイックな戦士であった。ドイツ空軍の「アフリカの星 Star of Africa」と賞されたハンス・マルセーユ(Hans-Joachim Marseille)大尉は一日で7機もの撃墜を成し遂げるほどの破天荒な天才であったし、英国のマルタ(Malta)島攻防戦の英雄、2週間で27機の撃墜を記録した英空軍のベアリング(George Beurling)大尉も編隊では戦えない一匹オオカミであった。
彼らに共通する印象は、戦国期の剣客に重なる。宮本武蔵やそのライバル佐々木小次郎などはどう見ても常人の常識をはるかに越えた存在である。また、幕末の名人、音なしの剣法で有名な高柳四郎、仏生寺弥助、新撰組の土方歳三、沖田総司など、誰を見てもとてもじゃないが常人ではない。
現代の野球でみれば、シアトル・マリナーズのイチロー選手の姿も、これらの名人剣客あるいは海軍の撃墜王のイメージに重なる。ひたすらその道を極めていく姿勢には、重なる部分が多い。
一つのチームにおいて、これらの名人の存在は、あり難いけれど、煙ったい存在でもある。一般常人とはどうしても波長が合わないので、これら名人はチームから浮いてしまうことが多い。あるいは浮いた存在になるのが普通と言える。英空軍のベアリング大尉は「スクリューボール screwball」(変な奴というような意味か)というあだ名が付けられていたように、完全にチームから浮いていたようだ。
しかし、彼スクリューボールが、もしラテン系の戦闘機チーム(例えばスペイン空軍とかイタリア空軍)に所属していたのなら、あそこまで孤立することもなかったのではないかという気がする。
いずれにせよ、剣の達人、空中戦の名人を抱えているチームの監督と主将の気苦労は察するに余りある。名人を殺せばチームの和は良くなるだろうけれど戦力はがた落ちになる。少なくとも一流の相手とは戦えなくなる。例えば、日本チームがマイナーリーグ(17位以下の国々から構成)で優勝を狙うなら、中田英や俊介という名人を外して、ひたすらメンバーの力を均一化して、組織プレーに専念するやり方が考えられる。充分に勝てるのではないか。
しかし、これをやると、永久に16チームのメジャーリーグには参加できないだろう。日本サッカーは一流の仲間入りを狙うのか、それとも二流の大将をねらうのか。
個性とチームワークの調和は組織の永久の課題であり、イギリス流でもない、ラテン流でもない、日本流の調和が発見できたときに、ワールドカップでの4位以内が見えてくるだろう。残念ながらそれはどう楽観的にみても私の目の黒いうちには無理だろう。
日本の会社は、基本的にエース(ace)を殺すことで、すなわち常識人にあわせた全体の調和を優先さすことで、戦後の発展を実現してきた。その事実を理解せず、いたずらに欧米の成果主義などといった、エースとどんぐりの差を公然とつけるやり方を採用すると、どういうことになるのか、現在の会社の経営陣は考えたことがあるのだろうか。難しい問題ではあるが、一つ確実にいえるのは、欧米でうまくいっているやり方は日本ではマイナスの効果しかでないということである。
日本の会社はいまやメジャーリーグでどうやって勝てるか、どころの話ではなく、チームの士気が衰え、このままではアジア予選も危うい状態になっているのではないだろうか。日本の会社には、もともとエースといえるほどの人材はほとんどいないのだ。全員が1機2機の撃墜を記録するのが関の山の集団であり、しかし全体の和(合計)で戦ってきた。本来エースでない人をえせ成果主義で高得点を与えれば、どんぐりの士気が落ちるのは当然である。
(06.6.26.篠原泰正)