欧米資本の会社で働いていたとき、チーム・ワーク(Team Work)という言葉を会社トップから何度も聞かされた。この言葉は、その前に働いていた日本企業では、当たり前すぎて誰もわざわざ口にする必要もなかったものだ。そもそも標語とかスローガンといったものは、それが達成できていないから唱えられるのであり、例えば、ある工場に行き、そこらじゅうの壁に「整理整頓」というポスターが貼られていれば、その工場では整理整頓が十分になされていないと判定できる。
欧米の企業では社長が先頭になって、”チームワーク、チームワーク”と叫ばなければならないのは、社員にその心が欠けているからである。まったく無いわけではなく、仲間と共同でやることが苦手でもないのだが、自分の利益にならないようだ、自分の責任が問われそうだ、といった事態に直面すると、会社全体、チーム全体のことよりも、まず自分優先となる。これは別に怪しむほどの行動様式ではないが、市場での製品に不具合が出たときなどには、その解決に大きな障害となりうる。会社全体での早期問題解決よりも、個々人が守るべき自分の利害を優先するので、とかく話がややこしくなる。会社トップとしては「チームワーク第一」と叫びたくなるわけだ。
一方、日本の会社においてはチームワークが前面に出すぎると、個性的な社員には息苦しい環境となる。全員が田植えに汗を流しているときに、一人たんぼの畦道に座り込んで、タバコを吸いながら、「米だけ作っていてもこれからの時代にはやばいのではないか、別の作物作りにも手をだすべきだろう」なんて事を考えていると、間違いなく非難の的になる。私自身は、仲間と一つの目的にむけてわいわいとやっていくことは大好きではあるが、商品企画という職業柄と自分の性質のため、とかく、この畦道ぼんやり、一見アンチ・チームワークという行動を取ることも多かった。楽しく働かせてもらったが、同時にいつも何がしかの息苦しさも感じ続けていた。
サッカー日本チームにおいて中田英選手の存在が「チームから浮いていたとかいない」とかの話が新聞やテレビであるそうだが、もし「浮いて」いたのなら、それは彼以外の選手の未熟さが問題だろう。中田英選手ぐらいの個性をもてあますようでは、まだまだこのチームがワールドカップなんぞには出る資格がなかったということだろう。
サッカーの試合を眺めていると「チーム」という集団の極めて高度な、あるいは最高峰の存在なのかもしれぬという思いがわく。各人がプロとしての技と自覚を高く持ちながら、チーム全体としていかに勝つかに向かう。この場合のチームのあり方には、二つの主流が有るようで、一つは、ラテン流の「俺が俺が」という個性の調和体としてのそれである。もう一つは、イングランド流で、あくまでも組織の力で向かうやりかたである。
前の戦争の時、イギリスの航空隊は極度に個人プレーを嫌い、編隊空戦を全員に強制した。最高スコアの撃墜王でも40機に到達していないことがその証拠でもある。
話が田植えのチームワークから、プロフェッショナルの集団のチームワークに逸れてしまったが、誰を手本にした方が良いかを考えると、日本はラテン流のチームはとても無理で、中田英選手ぐらいがごろごろ存在するようになったときに採用すればよい。ジーコ流はとてもまだ消化できる力量ではなかった。それではイングランド流を採用すべきだろうか。そう思うけれど、編隊空戦だけでは本ちゃんは戦えない。最後は1機対1機の力比べに勝つ力がいる。
このようにみてくると、2次大戦の戦闘機航空隊のチームとサッカーのチームは、組織として同じ最高レベルが必要とされているようだ。撃墜王を擁しその力に頼りながら、全体としてはチーム力で勝つという。このようなチームを作り上げるのは、本当に難しい。
ジーコ監督、ご苦労様でした。
(06.6.26.篠原泰正)