終戦後、小学校の低学年まで、「テイデン(停電)」という言葉はなじみ深いものがあった。記憶によれば、ほぼ毎日のように決められた時間に停電があり、あるいは予告無しに電気が消えることもあった。これはもちろん電気の供給が足りないから生じていた現象である。子供にとっては停電もまた楽しい出来事で、お化けゴッコをする良いチャンスでもあったし、ローソクの光の下に取る夕ご飯も、またなかなか乙(オツ)なものがあった。
そのような耐乏生活に慣れていたはずなのに、大人になって「高度成長」の波に乗ってしまうと、苦しい時の生活はコロリと忘れて、電気というものはスイッチを入れればいつでも確実に手に入るものだとの錯覚におちいっていった。
子供の時の習慣というものは当てにならないもので、例えば、小学生が終る頃までは、明日着る予定の下着と服を枕元にキチンと畳んで(たたんで)、しかも身に着ける順序のとおりに畳んで寝につくのが習慣であった。これは「空襲」に備えて、いつでも素早く防空壕へ逃げ込む用意に由来する習慣、あるいは親のしつけであり、そのような心配の無くなった終戦後も我が家では続けられていたようだ。このようなせっかくの良い習慣も大人になるとこれまたコロリと忘れて、脱いだ服は散らかしぱなしという有様になってしまった。
話は逸れたが、ここは、電気の話である。
衛星が撮影した夜の地球の写真を見ると、日本列島は煌々(こうこう)と光輝いて写っている。列島の形がくっきりと見定められるほどにその光は明るい。この写真を見れば、俺達はここまで電気をジャブジャブに使っているのだと、そのときだけは一瞬反省するが、これまたすぐに忘れてしまう。空気と水と電気はいつでも手に入るものとの、「文明化された思考力」が頭の根元にあるからだろう。
しかし、考えて見れば、いつでも安価に電気が手に入る時代は永遠に続くわけが無い。電気を獲得するために大汗をかかねばならない時代が近づいている。また、工業化先進国以外の多くの地域では、電気の供給は、日本の終戦直後の状態に近いことも、「情報」としては知っている。豊かな生活、豪遊ではなく、誰もが同じようにそこそこ食べていける豊かな生活のためには、電気というエネルギーは欠かせない。反面から見れば、電気さえあれば何とかなるとも言えるだろう。
しからば、その電気はどこから獲得するか。石油を燃やしてタービンを回して電気を得る事が次第に難しくなってくるから、今度こそ本気で自然エネルギーから電気を得る仕掛けを大々的に展開しなければならない時代が、今、来ている。この分野では、すでに技術が確立され、利用も広がっている風力発電と太陽光発電がもっとも確実であることは大方の同意するところだろう。
日本は幸いなことに、これらの発電に必要なタービン技術も太陽光パネル技術も有しているし、それらを組み込んだ製品を作るメーカーもたくさん存在する。贔屓目(ひいきめ)に見なくとも世界のトップスリーには位置している。それなのに、遅々(ちち)として、風力発電も太陽光発電もその展開が進まないのはなぜだろうか。
かつて、「停電」が当り前であった時代を忘れた、「近代工業化文明ボケ」にわれわれ全員の頭が麻痺しているためだろう。電気のありがたさを忘れた者には、電気から復讐されることになりはしないだろうか。
(06.5.28.篠原泰正)