日本語は3階建ての構造になっており、更にその上に「論理的表現」という4番目の階を建て増ししなければならない、という話を前に書いた。4階建てとは大変なことだと考えていたのだが実はもっと大変らしい。
昨日、梅原猛教授の本を読み返していたら、日本語の起源についての論考があった。誤解を恐れず、勝手に自分なりに解釈すると、縄文人の元祖日本語の上に弥生人の渡来日本語が重なったということらしい。そうであれば縄文日本語が1階であり、弥生日本語が2階となる.弥生日本語が朝鮮半島から弥生人と共に渡ってきたことは、ほぼ定説として信じたい。そのもたらされた言葉が、古朝鮮語そのままだったのかどうかはわからないが、ともかく、縄文日本語と混血して「原日本語」が形づくられていったわけだ。
原日本語の言語アーキテクチャーはどの様に形づくられたかを私なりに考えてみる。
社会の構造が複雑なほど言語も発達しているとみれば、農業という生産方式をみにつけていた渡来人社会の方が縄文人社会よりは複雑であったろうから、言語体系は古朝鮮語のそれにとって代わったとみるのが素直であろう。縄文日本語は、単語のレベルで生き残った。
1階は縄文日本語、2階は弥生日本語。ここまでが、中国から漢語と漢字が入ってくるまでに、言語体系として一つの完成をみていた「原日本語」である。3階は中国からの漢語と、同時にこのときはじめて(多分)漢字という文字も輸入された。3階までは、おおよそ6世紀には完成した。
4階は幕末期からの西欧単語の輸入で建てられている。
哲学関連の抽象的概念、自然科学関係、技術関係、そして社会の仕組み関係などの数え切れないほどの単語がおよそ30年ほどの間に漢語に翻訳されて日本語の中に組み入れられた。漢字を使っての単語翻訳は、多分90%以上は、そこそこ対応できたのではないか。中国文明がそのときから千年前に完成させていた文字と言葉で写し変えができたのだから、中国文明の発達の度合いが分かろうというものである。
発音の話を忘れていた。
原日本語の発音はどこからきたのだろうか。あいうえお、かきくけこ、とすべて母音がつく日本語の発音は、どうみても(どう聞いても?)ポリネシアが親戚とおもえる。しかし、南の海から丸木舟でわたってきた「ポリネシア日本人」の発音が、原日本語の発音の主導権をとったとはとても考えられない。そのように強い勢力ではなかったはずだ。発音の出所は結局謎である。
日本人にとって欧州言語のなかで、発音だけとりあげれば、スペイン語とイタリア語が習うのに最も易しい。何しろ、アイウエオ、カキクケコ、とはっきり発音すれば90%はOkになるから楽である。私も”お前のスペイン語の発音は素晴らしい”とほめられた経験が有る。外国語の発音でほめられたのは、後にも先にもこれ1回きりである。しかし、原日本語とラテン語がどこかで接点があったわけがないので、発音が似ているのは、たまたまの偶然であろう。
話がそれていったが、日本語の構造の話に戻すと、5階が「論理的表現」となる。
言い方を変えれば、この5階まで建てて、日本語は世界の中の日本語、文明としての日本語、あるいは、オープンジャパニーズとなりうる。
ものごとの関係のありようや考えを、論理的に明確に表現することによってのみ、文化を異にする世界の人々と話をすることができるようになる。文化を異にしていても、近代工業化社会のレベルがほぼ同じであれば、社会の仕組みから思想の表現まで、ほぼ共通の土台で理解しあえる。また、極めて大雑把に言えば、自然科学や技術は、初めから文化とは関係ない汎用性があるから、相手にことを理解できる頭脳さえあれば伝えることができる。
「朧(おぼろ)に霞む」ことを極意とする文化から、人工的に日本語を切り離し、世界に共通する事項を語るための日本語、すなわち、世界に開かれた日本語を構築しなければならない。
もっとも、現実は、たとえばパテントという世界の共通分野で、技術という共通事項を記述するにおいても、「朧に霞ませて」いるのが、当たり前として通用している社会だから、オープンジャパニーズへの道は遠い。
(06.3.24. 篠原泰正)