ロマンス語(仏語や伊語)でも英語でも、一つの文章の中で、ある事項の説明、すなわち修飾は後ろでなされ、日本語の場合はその事項の前で行うことは、多くの人に認識されているところである。*英語の場合は、簡単な修飾の場合は事項の前で行われることも多いが、ここではその内容には立ち入らないことにする。
従って、例えば英文を日本語文章に翻訳しようとすれば、記述の順序が天地逆さまになるぐらいに入れ替えなければならない。このことは、欧州言語の、動詞から目的語へという順序と日本語の目的語から動詞という流れも加わるから、更に凄いことになる。人類としては同じ人間なのに、用いる言語の表現の順序がこれほど違うことには、いささか呆然とさせられる。
人は言語でものごとを考えるから、どの言語を用いて考えているかは、その人の考えを理解する、少なくともできるだけ理解しようと努めるためには、極めて重要な要素となる。
言語を用いて一つの考えを展開している場面を想定すると、言語を構成している要素の中でもっとも重要なそれは、言語の展開の順序となる。この順序は、まず、ものごとを把握する場面で現われ、ついで把握した事実について考えをめぐらす場面で現われ、最後にそれら、把握した事実やめぐらせた考えを表現する場面で現われる。
従い、ある人が何を表現しているのかをできるだけ正確に把握しようとするなら、使われている言語の表現の順序のままに理解していくことが肝心のこととなる。
一つの英文を和訳(日本語に翻訳する)して、記述されている事実や考えを理解しようとするやり方は、ここまで述べてきたことからも明らかなように、「誤解」を招く危険がある。なぜならば、和訳した途端に、われわれは記述されていることを日本語で理解することになるからである。
更に、言語の修得方法としても、英文和訳は日本語の勉強にはなるが英語の勉強にはならない。この訓練を何年続けても英語が習得できないのは当然である。
どうでもいいような情報は翻訳で入手しても問題はないが、企業や社会の中で重要な位置にいる人が、海外の情報を日本語翻訳に頼っているのでは、社会や企業の命運がきわめて危ういものとなるだろう。
欧州において、例えばフランスの人が英語文書のフランス語訳に頼っても、言語の順序が基本的に同じであるから、微妙な言い回しや、それによる隠された意図などを把握する上ではいささか問題が有るかも知れないが、基本としては問題は生じないだろう。
一方、われわれの母語である日本語と欧州言語の順序が上に述べたように根本的に異なるという条件下にあるわれわれが、安易にそれら欧州言語の日本語訳に頼っていることは、極めて危険な状態といえる。国防上の大問題といってもよいだろう。ミサイルを千基装備するより、国や企業のエリート層の外国語訓練に投資したほうが、国防の役に立つだろう。
企業においても、何が表現されているのか読む人が理解できない文書、例えば特許仕様書をゴマンと海外に出願する金と暇が有るのなら、エリート社員の外国語教育に100億円なり200億円のお金を投じたほうが、企業の生き残りのためには、はるかに有効であると、私は信じているのだが。
欧米の情報を日本語翻訳で読んで、理解した、と思い込んでいると、それが個人にとっても、企業にとっても、国にとっても、命取りになりかねない。
繰り返すが、ものごとの観察と思考は言語(その人の母語)でなされ、思考と主張の流れは言語の流れである。言語の流が異なるということは、ものの観方、考え方、主張の仕方が異なるということである。
世界は、日本語に翻訳されて、霞が掛かった様にぼんやりとした、また穏やかな、叙情の世界とは、その生の様相は異なる。そのようなオソロシイ世界を生で見たくないから、すべて和訳して、日本的情緒に転換して接することにしているのだろうか。英文和訳という勉強方法は、生徒に、厳しい現実から目をそらし、ほんわかした日本の世界に逃げ込みなさいと教えているようなものだ。
(06.3.1. 篠原泰正)