「転換・革命期」への変革期時代(1)
アメリカは「物つくり」では日本に負けた。しかし新しい産業を生み出す土壌つくりは早くから取り組んでいた。一方、日本企業は「物つくり」の成功体験から抜けられないまま、ズルズルと「転換・革命期」を迎えてしまった。「物づくり」大国、日本を象徴した「物づくり」メーカ(電機、機械、装置など)は、グローバル競争に負け、事業の転換ができずに苦戦を強いられている。
幸いに素材メーカ(化学)は、世界の最前線で勝負し続けており、「物づくり」日本の面目を辛うじて守ってくれている。その理由は、職人気質の日本人に合っている産業分野であるという説もあるが、正確には素材研究開発の技術者たちは、「調査研究」を重視する遺伝子を持っているからだと思う。
古い資料であるが、あるアメリカの大企業の中央研究所が、所員に対して“どうしたら研究所の創造力を高めることができるか”を質問したそうだ。
38%の研究者は考える、あるいは調査する時間が欲しいと答えている。また、20%は研究所内のグループ間の、横のコミュニケーションや共同の必要性を挙げている。14%は、所外の情報が不充分であることを挙げている。これら上位三つの答の表現はそれぞれ違っていても、いずれも創造的な活動を行うために自身の携わっている分野、及び他分野の情報や、その「整理・解析」が不充分であると痛感していることを示しているのではなかろうか。恐らく、日本企業で同じアンケートを取っても、大差のない結果が得られるものと思う。
1985年は、米国にとって画期の年であったといえる。この年に象徴的な二つのレポートが提出されている。一つは、議会委員会の議長を務めたHP社のCEOの名を取って「ヤングレポート」と称される、レーガン大統領への答申書である。これのもとづいて米国は「プロパテント政策」ヘ転換したと言われている。もうひとつは、マサチューセッツ工科大学が世に問うた「メイドインアメリカ」という分厚い報告書である。
この二つの報告が分析された当時の米国の状況は、「物づくり」の競争に敗れたということであり、その分析から導き出された提案は、ヤングレポートにおいては、知識と技術の重視と、それに基づいて、ひとつは知的財産権の強化であった。
一方、マサチューセッツ工科大学のそれは、製造業の大幅な改善であった。マサチューセッツ工科大学の報告が、その後どのように扱われたかは私は知らないが、その後の米国の動向を見る限り、この提案は「国策」として採用されなかった。つまり「物づくり」で、もう一度、世界のトップの座を奪い返そうと言う方針は、米国において永久に葬りさられたことになる。
1985年での時点で、あるいは1990年の時点で、米国の強いところをと弱いところを考察すれば、「物づくり(ハード製品)に負けたあと、残された強い分野は、コンピュータ・ソフトウエア、バイオ、そして情報システムを基盤にした各種の社会運営システム、ビジネス方法のシステム化にあることは、それほど深く考えなくてもわかることであった。
強い分野に特許を与えて、将来のロイヤルテイ収入を期待しょうとすることから当然のことながらコンピュータ・ソフトウエア特許があたえられるようにした。国や企業を動かす仕組み(システム)は、IT技術(Infomation Technology情報技術)抜きでは考えられない。
そのソフトウエアは、圧倒的に米国が強い。バイオ分野での特許範囲も大幅に広げることにした。これも米国の世界制覇の一環であるが、深く立ち入ることは控える。更にシステムに強いことを生かして、ビジネスのやり方まで特許を与えることにした。ローヤルテイが稼げる特許をたくさん持つという戦略からして極めて素直な動きであったことがわかる。
米国は、これからは知的産業の時代だ、と宣伝しまくった。なぜ国を挙げて宣伝をしまくったかといえば、それは世界中からローヤルテイを徴収できるようにするためであった。かつて米国の旗印のひとつは、自由競争であった。従って公正取引(不正競争防止)、独占禁止は自由なる米国のシンボルとして、内外からそれなりの尊敬を持ってみなされてきた。特許の権利を声高に主張することと、独占を禁止する考えは基本の論理として相容れられない。従って米国自慢の独占禁止法は、1985年依頼、倉庫に葬られることとなった。(篠原レポート(2005年)&発明くん 2019/09/27)