2.「黎明・成長期」の時代背景(2)
「黎明・成長期」では改良すべき「製品要求(ニーズ)」は、たくさんあった。例えば、応用技術、用途技術、製造技術など研究開発テーマには困らない時代である。研究開発技術者に期待されているのは、与えられた課題を組織の一員として効率よく解決し、他社より早く成功することが至上命令となる。それは、質の高い従順な兵隊であることを意味する。
こうした組織でのリーダ(管理者)たちに求められるのは、解決すべき課題が与えられているのだから、課題の解決を部下に命じればよい。彼らに求められるのは、いかにして部下のモラルを高く保ち、彼らに実践先行を根性でやらせるかである。幸か不幸か、これまでは、それで成功を収めることができた。
似たもの技術の発明や考案が、どんどん生まれることで特許の出願も増え続けた。「談合特許」の良き時代?とは言え、開発技術者は他社の特許を調査・監視しながら研究開発を進めねばならない。しかし実情は「実験研究」が優先され、特許調査といった「調査研究」には時間が取れない。そこで、彼らを支援する専門スタッフが「特許課」の中に配置された。しかし、当時の特許調査は、専門家でも難儀であった。その理由は、情報量が膨大にも拘わらず、それらの情報はデジタル化が進んでおらず、紙をベースにしたアナログ世界であったからだ。
当時の「日本特許情報検索システム」は、社団法人ジャパテック(財団法人JAPIOの前身)が開発した「パトリス」だけであった。しかし、今のように低コストで誰もが簡単に、しかも効率よく使いこなせる状況ではなかった。通信回線費を含めた検索サービス料金は高く、検索機能も出力データも限られていた。
パトリス以外の「特許調査ツール」は、特許資料センター(個人会社)が発行していた「特許年間索引(分類別・出願人別)」があった。昭和28年からの「日本特許公告年間索引」と昭和46年からの「日本特許公開年間索引」である。当時、コンピューターでの処理は金が掛かりすぎて全てを手作業で編集し(切り貼り、タイプ打ち)、印刷・製本していた。この「特許年間総合索引」は特許庁の資料館をはじめ多くの企業に採用された。
日本特許公報(公開・公告)は、紙印刷の合本方式である。発行量は膨大で日々貯まる一方である。企業は置き場所が無いという問題を抱えていた。このニーズに応えたのが日本特許公報のマイクロフィルム化である。リコーが、日本特許公報を「特許分類別」と「出願人別」に編集したマイクロフィルムを出版した。この商品を作成するには、発明の名称、出願人、特許分類(主副)といった書誌データをコンピューター入力する必要がある。「日本特許データベース」の元祖である。その後、この特許データベースは特許資料センターでも使われた。更に、ダイヤモンド社の「経営開発情報」にも使われた。因みに後年、JAPIOとの業務提携で、これらのデータ(抄録付きデータもあった)は、JAPIOへ移管されることになった。
日本特許公報の電子化(平成5年)は、商用データベースの進歩を促した。膨大な特許情報の中から必要な情報だけを抽出(検索)することは容易になった。そして、研究開発技術者たちの課題解決能力を大幅に強化することにも役立った。理屈では、課題を解決(課題解決型の特許調査)するためには初期情報をすべて活用できるということになる。だから必要な情報を探し出す(検索する)能力が十分備わっていれば、必要な情報を探し出すことができる。
「成熟・衰退期」は、「黎明・成長期」のような、「うまい、ネタ」は転がっていない。なにかと便利な時代を迎えた。不便なものが無いわけで、全てをやり尽くしてもうやることがないという状況でもある。「成熟・衰退期」は、これまでと違い課題は、上から与えられるものではなく、それを自分たちで生み出さなければならない「課題創出」の時代となった。それができなければ人減らしというリストラをやらざるを得ない。事業の「再編・統合」は進み、それさえ叶わぬ企業は、倒産するのを待つしかない、という厳しい時代を迎えた。(発明くん2019/09/04)