私は年金生活者である。2000万円の貯金は無い。暇はあっても頻繁に旅行をする余裕は無い。だから、その旅行から「何を得るのか」、目的をなるべく明確にして出かけるようにする。気負った言い方をすれば、自分の関心事に対する知識を深めること、そして自分が抱えている「ナゼ」への疑問解きの旅でもある。自己満足であるが「モヤー」とした疑問が、少しでも紐解けるとスッキリする。
できる限り現場へ行きたがる理由は、生きた情報は現場にあるという考えを持っているからだ。ある人曰く、”口は一つしか無いが目と耳は二つある”。つまり余計なことは言わずに、”倍、聞いて、倍、見なさい”ということらしい。そうして得た情報は、自分独自の視点で自分なりに加工して発信すれば個性がでる。興味が旺盛で何でも面白がる人の周りには、自然に人が寄り集まるはずだ。そこで対話が始まり話が盛り上りる。余計なことだが認知症の予防にも繋がるかも・・・。
さて今回、旅行のキッカケとなった「ゴールデンカムイ」へ話へを戻そう。先に紹介した本”アイヌ文化で読み解くゴールデンカムイ」”の著者である中川裕先生が、「ゴールデンカムイ」という作品の上手さについて適格に述べられている。
【「ゴールデンカムイ」という作品の上手さについて】:この「ゴールデンカムイ」という作品が人気を得て、お読みになっている方が増えてきたごろから、小樽市総合博物館にも展示の解説に、この漫画を使うようになりました。(中略)。こんな展示ができるのもゴールデンカムイという作品は、どのシーンに関して正確な調査をしっかりと行った上で描かれているからです。博物館が教材に用いても差し支えないものになっているのは凄いことですね。こうしたひとつひとつの描写の正確さといもうのも、この作品の面白さの源泉となり、魅力とおもいます。
続いて、満州に派遣された1939年(昭和14年)以後の第7師団の動きについて整理する。その前に、日本は何故アメリカと戦争するに至ったのか、その当時の背景を知る必要がある。
【第一次世界大戦で無傷のアメリアカと日本がライバルとなる】:総力戦となった第一次世界大戦は、ヨーロッパの国々を弊害させた。その中で力を伸ばした国が二つあった。共に本土が戦場となることを免れ、ヨーロッパへの物質の輸出によっ手経済発展を遂げた日本とアメリカ。以降この両国はライバル関係となる。米西戦争(1898年)での勝利により得たフイリッピン、グアムを足がかりにアジア進出をもくろんでおり、同じくアジアでの勢力拡大を企てる日本とぶつかることになった。後の日米開戦の火種は既にこのときからあった。(日本史 朝日新聞出版社)
第7師団は北辺の守りを担う重要師団であり、1940年(昭和15年)に北海道に帰還した。師団本体は、同年8月に天皇直属隷下に置かれ以後、「動かざる師団」として北海道に在り続けた。1942年(昭和17年)ミッドウエー島攻略作戦のために、歩兵28連隊を基幹とした支隊が編成され、カダルカナルへ派遣される羽目となった。此処でも、日本の戦争指揮の拙さとアメリカ軍の物量によって壊滅的な損害を出した。
更に北方作戦としてアリューシャン列島にも派遣されたが、アッツ島の戦い(玉砕)の前にキスカ島へ転進し、キスカ島撤退作戦で千島列島へと生還することができた。第7師団残余兵で編成された部隊は、千島列島の防衛を担当し、8月15日後の戦い(1945年8月18-21)として知られる「占守島の戦い」に参戦。ここでも大損害を受けた。8月23日の武装解除後に捕虜となった日本兵は、法的根拠なく拉致されシベリア抑留された。しかし彼等の戦いぶりによって結果的には北海道にソ連軍が上陸されなかったという説もある。
1944年(昭和19年)2月には留守第7師団を基幹に第77師団が新設され、3月には師団司令部を帯広に移駐して道東方面の防衛に専念することになった。これに伴い、歩兵第26連隊を帯広、歩兵第27連隊を釧路、歩兵第28連隊を北見に配置し、計根別平野(現中標津町)を決戦地として定め、海岸陣地やトーチカの構築に専念する。予期された連合軍の襲来が無いまま、第二次世界大戦の終戦を迎えた。師団が設営したトーチカが今もなお根室、釧路、十勝の海岸線に残されている。
(*)因みに「ゴールデンカムイ」に出てくる、第7師団の鶴見中尉は、日露戦争後の政府の待遇に不満を抱き軍事クーデターによる独立国家をもくろみ部下と共にアイヌが隠した黄金探しに奔走するエリート軍人です。
(*)大日本帝国エリート軍人の思考、行動について篠原ブログで幾つかアップされています。そのひとつを紹介します。興味ある方にお読み頂ければ幸いです。
https://nihonir.exblog.jp/6166867/(発明くん 2019/06/19)