日清戦争と日露戦争が勃発した当時の世界情勢(特にアジアの情勢)を知ることで、満州という得体の知れない国家が何故、誕生したのかが少しずつ見えてくる。「日清・日露戦争」での、神がかり的な勝利が、多くの日本人を舞い上がらせたことは確かである。権力者・指導者のみならず、一般庶民までが”日本人は能力が高く、優秀な民族である”という幻想を抱いていたに違いない。その思い上がりを「国威発揚」に利用し、支配地の拡大へ足を踏み入れた。
我々家族(6人)は満州へ渡るために大阪から下関へ行ったが、渡航前に終戦を迎えたらしい。父親は、”これも何かの縁だろう”と下関永住を勝手に決めたそうだ。その後、父親は大陸からの引揚者の世話をしていたと聞いている。私の満州への関心は、恐らく父親の影響かもしれない。「人間の条件(五味川順平)」、「夕日と拳銃(壇一男)」、「蒼穹の昴(浅田次郎)といった満州を舞台にしたテレビ放映を好んで視聴した。また満州に関する書物も好んで読んでいる。これらの書物から学んだことは、事実を知り、その背景を知り、所縁の地を尋ね、自分のアタマで考え、そして整理することの大切さである。前号「日本史」の続き↓
【条約改正実現の背景とは】:幕末に欧米と結んだ不平等条約に悩まされてきた明治政府は、国内の近代化を急ぎ、条約改正を目指した。改正の内容は、領事裁判権の撤廃と、関税自主権の回復である。国際情勢の変化が日本に有利に働いた。ロシアの南下政策を警戒したイギリスが日本に接近してきたためだ。明治27年(1894年)イギリスとの間で、領事裁判権の撤廃が実現した。
【なぜ日本は清に挑戦したのか】:その頃、日本もロシアを警戒しながらも朝鮮を勢力下に入れようとした。日本は朝鮮を開国させた後、内政干渉を繰り返し、宗主国である中国(清)との対立を深めていた。明治27年(1894年)朝鮮の各地で減税と排日を要求する農民の反乱が発生し、朝鮮政府の要請を受けて清が出兵。これに対抗して出兵した日本は、イギリスの支持を取り付けて清に宣戦布告し、日清戦争が勃発。近代装備で勝る日本軍は清軍に勝利し、明治28年(1895年)に下関条約が締結された。清は、朝鮮が独立国であると認めさせられ、台湾・遼東半島などを日本に割譲したのである。
【日露会戦までの国際関係】:日清戦争後の講和条約で、日本は遼東半島などを獲得したが、アジアでの南下を狙うロシアは、ドイツ、フランス誘って日本に圧力をかけ、遼東半島を返還させた。これが、三国干渉(*)である。明治32年(1899年)清で、大規模な民衆反乱「義和団の乱」が勃発。翌年、日本を含む列挙8カ国が鎮圧のため出兵した。乱の鎮圧後、各国の軍は撤兵するが、ロシアは満州に居座り、日本を刺激した。イギリスもロシアの南下政策を敵視しており、明治35年(1902年)、利害の一致した両国は日英同盟を締結することになる。
【消耗戦の末に日本が辛勝」:満州・挑戦の利権を巡る日露交渉は難航し、日本政府は会戦の方針を固めた。明治37年(1904年)2月、ついに日露戦争が勃発。日本は旅順攻防戦、奉天(瀋陽)会戦、日本海海戦などで軍事的勝利を重ねたが、多大な人的・物的犠牲を払う。同じ時期、第一革命が起きたロシアが講和に動き、明治38年(1905年)アメリカの仲介によりポーツマス条約が結ばれた。日露戦争後、弊害した両国は接近。大韓帝国(1897年改称)、満州南部を日本、満州北部をロシアの勢力範囲とした。韓国での優位を固めた日本は、韓国への圧力を強め明治43年(1910年)ついに併合した。
【満州進出の好機が到来】:大正3年『1914年)ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発した。これは日本にとって、ヨーロッパ諸国が戦線に縛り付けられている間に、アジアで勢力を拡大する好機となった。日本はイギリス、フランス、ロシアからなる連合国側につき、ドイツに宣戦布告。ドイツ祖借地であった中国の山東半島の青島や太平洋上のドイツ領南洋諸島を占領した。また中国に対しては、山東省におけるドイツの権益を日本が継承することや、南満州や東部内蒙古出の日本の権益の強化などを求めた21か条の要求を行い、その大部分を中国側に飲ませた。
【ワシントン会議と協調外交】:こうした日本の行動は、欧米列強の警戒心を強めるに十分だった。大正10年(1921年)、アジアにおける列強の利害関係を調整することを目的にワシントン会議が開催された。会議では山東省における日本の権益放棄や各国の主力艦の保有比率を英米が5.日本が3.とすることなどが取り決められた。以後、日本はこの会議での決定事項に沿って。協調外交の道を歩むことになる。これ以上の国際的孤立を防ぐためにはやむ得ないことだった。
三国干渉について、もう少し整理をする。日清戦争後に締結された日清講和条約により清国は、台湾や遼東半島を日本へ割譲した。しかし不凍港を求めて満州や朝鮮半島への進出(南下政策)を画策しているロシアは、フランスとドイツを誘い、「イチャモン(三国干渉)」をつけた。当時の日本には西欧列強の干渉に抵抗できる国力は無く、遼東半島を清国へ返還することになる。しかし明治31年(1898年)、ロシアは遼東半島の旅順、大連を租借し、朝鮮半島にも介入するようになった。朝鮮政府にも日本の影響を排除する為の親ロシア勢力があり、朝鮮半島はロシアの勢力圏となる可能性があった。
この時期、イギリスも中国における自国の権益を守るためにロシアの南下政策を警戒していた、当時の最強国イギリスも各地に紛争を抱えアジアまで手が回らない。そこで日本を支援してロシアの野望を防ごうと考えた。日英両国の思惑は合致し、明治35年(1902年)日英同盟が締結された。明治37年(1904年)2月6日、ロシアに対して国交断絶の最後の通達を言い渡し、日露戦争が勃発する。(この続きは次号へ 発明くん 2019/05/29)
(*)旧満州へ旅行(2017年6月)した時のブログ(2017年6月~8月)は、こちらにあります。お読み頂けると嬉しいです。
https://nihonir.exblog.jp/25862456/