徳川三代目の家光の治世の時に、たしか1633年に、最終的に鎖国を絶対令としたことは、日本の歴史の上で痛恨の方策であった。この方策の結果である後遺症は、370年を経た今でも色濃く残っている。その一番は、世界の情勢に疎いことである。
家光の祖父の家康も保守的な人であったようだが、それでも戦国の時代を戦い抜いた人物であるだけに、信長や秀吉と並んで、世界の動きには敏感であった。反面から言えば、世界の情勢に鈍感な人物が、あの苛酷な戦国の世を制することができたわけが無い。
戦国の時代は、世界は大航海時代であり、欧州と日本で、グローバルな視野が開けた時代でもあった。スペイン帝国の庇護を受けてのイエズス会(Compania de Jesus)を先頭にしてのカソリック布教の動きは不穏なものであったが、当時の日本の国力(知力も含めて)からすれば、彼らの行動を抑えることは、充分に可能であったはずだ。つまり、それほど怖れることはなかった。ローマ教会とスペイン帝国がフィリピンのマニラに極東の総本部を置いていたにしても、軍事的な補給線を考えただけでも、日本を占領することはまったく不可能なことであった。
それでは、なぜ、門を閉めてしまったのだろうか。
徳川家光は生まれながらの将軍であった。1615年の大坂夏の陣以降、世の中は平和になり、生きるか死ぬかのせめぎあいの時代は終っていた。つまり、彼とその取り巻きの幕府経営陣は平和な時代の官僚群であったと見ることができる。戦の場に臨んだことのない将軍とその高級官僚たちにとって、多分、キリスト教の広まりは、悪魔の仕業のように思えたのかも知れぬ。
目の前の事実とそこからでてくる課題に立ち向かうことよりも、門を閉ざして安穏を選択したのだろう。一種の引きこもり、ともいえる。
鎖国の後遺症は、日本民族をして、事実に目をそむけ、先頭に立って未知の大海に乗り出す勇気を奪ってしまった。声のデカイ、力の強い親分の後をチョロチョロついていくだけの情けない民族になってしまった。
220年眠っていた間に、欧州とその親戚のアメリカは、数々の争いの中から世界の覇権を握るまでに成長していた。黒船によって門を開いたときには、その220年のギャップははなはだしいものがあった。その衝撃のあまり、欧米のやることは全て有りがたがる、情けない心情は、いまだに続いている。220年、葛藤の中で、自分達の頭で考え、行動し、その結果の責任を自ら取るたくましさを失ってしまったのだ。
1853年、再度門を開いたときに目の前にあった近代工業化社会の基盤と仕組みが、今、崩れようとしている。未知の大海に乗り出すしかない情勢に、今、なりつつある。
鎖国の後遺症を、もう、克服したいものだ。
(06.2.8. 篠原泰正)