われわれ日本人はなぜ明快な文書を書けないのだろうか。
考察を更に深めるために、その理由を、思いつくままに列記しておく。これ以降において、まちがっているのは消し、追加すべきは加えていくことにする。
なぜ明快な文書を書けないのか:
(1)露骨にものを言う事をはばかる心情が働く;
これは日本文化の根っこにある、狭い村の中で仲良く生きていくための生活の知恵に根ざしていることだから、その心情そのものを槍玉に挙げることはできない。この心情をもったまま、明確に言うべきときには言う理性と勇気を持つべきであろう。
(2)道具としての日本語が論理的に明快に表現する言語として適していない;
英語と比べるとこのように言うこともできると思うが、問題は、適応できるように言語を改善してこなかったことにある。日本語で論理的に書くことは可能である。
(3)文書を重視する文化がない;
日本でも、多くの古文書が残されている事をみれば、まったく文書の価を値無視しているわけではないことが了解できるが、例えば欧米社会においての文書重視の徹底と比べると、日本は「未開」の国である。
(4)他者を説得する気迫に欠ける;
(1)に挙げたことに関連するが、俺が俺が、とでしゃばると叩かれる社会だから、文書でもってなんとしても他者を説得するのだという迫力に欠ける。その気迫がないから、分かりやすくするために念入りに推敲(すいこう)を重ねる努力もしない。
(5)人を説得するにはどの様に文書を構成すればよいのか、誰も教えてくれない;
文書をどの様に展開すべきか、中学から大学まで、ひとつもカリキュラムがない。つまり、教育課程では、誰も指導を受けていないし、教える人もいないし、標準もない。大学を運営している人たちの頭の中には、このことの重要性を理解している人がいないのだろう。理解していれば対策を考え、教える講座を設けるだろう。なお、問題を認識していて、しかるべき位置にいながら対策を打たない人はその職から外れたほうがよい。
(6)責任を取りたくない;
文書で明確に明快に記述することは、その言ったことに責任を取る覚悟がいる。この責任を取りたくない人は、つまり卑怯な人は、明快に書かない。勇気のない人も明快に書かない。
(7)難しく書くことが「えらい」と思っているバカもいる;
自分は国の官僚だ、大学の教授だ、専門のXX士だ、と中身ではなく「肩書き」の権威だけに頼って生きている、つまり本来能力のない人は、わざと難しく書いて権威を保とうとする。
(8)分かりやすく書ける頭がない;
論文やレポートを権威付けのためにわざと難しく書くことは、相当の知性と能力が必要で、一般的に、分かりにく(難)い文書は、書いた人の頭の中が明晰でないと思われる。
(9)文化、生活レベルで使われる言語と論理的に表現するための言語が頭の中で整理分類されていない;
言語に対して無神経、あるいは勉強不足であると、文化的言語と論理的言語の使い分けができない。
(10)国の機関が論理的表現のための日本語に対してまったく何も理解していない;
日本語が国のレベルで、例えば国語審議会などで、論議される場合、その論議の対象は、文化生活的、情緒的、叙情的日本語であり、世界に発信するための「論理的日本語」がどうあるべきか、ということは、戦後60年の間、一度も論議、審議されたことが無いようである。なぜならそれが必要だという問題意識を誰ももっていないから。あるいは持っている人を審議会のメンバーに入れないから。
(11)外国語と比較できない;
自分が何気なく住んでいる国を見直すには、一度外国で生活するのが手取り早いように、普段何気なく使っている母語(日本語)を見直すには、何か一つ外国語を学ぶのが有効である。日本では中学から英語教育がなされているが、残念ながら、ほとんどの人が、母語と英語を比較して言語とは何かを考えられるレベルには達していない。つまり、日本語を改善する手がかりが外国語からは得られていない状態にある。
(12)他者への理解が少ない;
自国以外の他の文化や社会のありようについての理解が不足していると、異なる人に理解してもらうには、どの様に表現すべきか、と悩むこともない。悩まないから改善する必要性も感じない。この面では、日本人のほとんどは島国の田舎人である。先進国の中のイナカッペということでは、世界の中では、アメリカ人と双璧をなしている。
(13)論理的に考える訓練を受けていない;
教育課程において、また企業に入ってからも、論理的思考を鍛える訓練は、ほとんど受けてきていないのが一般的な姿であろう。
(14)論理的にものごとを進める人は嫌われる;
日本の村の中では、仕事を全て、論理的に押し進める人は嫌われる。同じことだが、論理的に明快に書いた文書はその村の中では「嫌われる」。
ここまで書いて疲れたのでやめる。
(06.2.6. 篠原泰正)