小学生のころ、講談を読みふけり、真田十勇士の猿飛佐助、霧隠才蔵、三好清海入道などが大好きだったから、彼らの敵の大御所、家康は大嫌いだったし、三代目が鎖国なんて事をしてくれたお陰で、世界の大航海時代に乗り遅れてしまったので、徳川(江戸)幕府は今でも好きではない。
しかし、中学3年の時には、江戸末期の川柳や狂歌に熱中し、また、戯作もの、例えば十遍舎一九の「東海道中膝栗毛」などにはまり込んで、そのため有名都立高校の受験を断念せざるを得ない状況も招いたくらいだから、江戸の馬鹿馬鹿しさへの好みは今でも残っている。
その江戸250年には、当たり前だが、石炭も石油もなかった。
それにしては、35百万人ぐらいといわれている人口をよく養えたものだ。もちろん、周期的に東北地方では飢饉に見舞われたり、年貢を絞り取られたり、何やかやと生きていくのは大変であっただろうけれど、全体の印象では、弥次喜多風の、のほほんとした時代に見える。
300もの小さな自治体に列島が分割されて、それぞれが生きていくために必死に知恵を絞っていたのだろう。どの様にして35百万もの人が250年もの長い間、基本的には同じ社会・経済システムで生きてくることができたのか、もう一度見直す価値がありそうだ。
弥次郎兵衛と喜多八がアホを重ねながら東海道を下っていた同じ時代の大英帝国、そのロンドンの姿を小説などで垣間見ると、街は汚れ、貧困者が溢れ、祭りもなければ温泉もない、歌舞伎もなければ吉原もない、ということで、どうみても江戸の町の方が豊かな印象がある。また、江戸だけでなく、今に残る地方の城下町のたたずまいも、豪華ではないがなにやらゆかしげな印象である。この、江戸の豊かな印象は何なのか。
職人も小商いの商人も漁師も自営百姓もお旗本も、そこそこ食えるという面では大差なかった、つまり、ほとんどの人が「そこそこ組」だったという心の豊かさだろうか。心だけではなく、経済力そのものからみても、19世紀前半の日本は.世界でも有数の豊かな国だったのではないだろうか。しかも、植民地から収奪することなく、自前だけで。
(06.1.24. 篠原泰正)