今年の夏休みは、オリンピックのテレビ放送と本読みで終わった。読んだ数冊の本の中で、自分が抱えている「疑問解決」に繋がる文章と出会うことができた。自分が抱えている疑問とは、特許明細書に書かれている文章にある。何もそんなに難しく、ややこしく書かなくても良いのではなかろうか、という素朴な疑問である。
1.表題:「弁護士」。著者は正木ひろし。発行は旺文社(1980/04/30)。
著者は冤罪が起こる「官僚組織」の問題を提起し、弱い立場にある被告人を救う弁護士である。「生身の人間」の声が聞き入れられない「組織の人間」との戦いでもある。
著者が言うには(本文引用)、法律文章における悪文には二通りあります。一つは知能(ことに法律的)の不足、または表現のヘタクソなための悪文(無邪気な悪文)。二つ目は、知能(ことに法律的)は余りあり、そのうえ、表現力も十分にありながら、ワザとワカリニククして、一般国民が真の意味を取り違えるように工夫した悪文(悪意ある悪文)。
2.表題:世界「最終」戦争論。対談は内田 樹と羹 尚中。発行は集英社(2016/06/22)。
フランスの知識人たちが、わかり難い文体を組織的に採用するようになったのは1960年代である。つまり彼等が論理的に明快な文章が書けなくなったのは「敗戦の否認」の後遺症が底流にあるからだ、と論じている。切り口は刺激的で目からウロコである。
内田 樹氏が言うには(本文引用)、フランス知識人の書く文章がある時期から「何を言っているのか分からない」複雑怪奇な文体になった・・・。頭のいい人たちは、こういう風にわかり難く書くものかな、それともこれが流行りのスタイルなのかな・・・。僕もこういう文体を取得しないといけないのか、と気持ちが片付かないままそういうテクストを濫読していた・・・。二重三重に多義的に意味を重ね書きして、読者をミスリードする技術にばかり熟達して、「本当は何が言いたいのか」を簡単に言い当てられないように身をくねらせたような文章を書くようになった・・・。
特許明細書は技術の説明書である。技術は普遍的事項であり、説明は読み手側の解釈に任すという部分があってはならない。事実をありのまま明快に分かりやすく(ロジカルに)書けば良い。ごまかし技術や文才は必要ない。官僚の作文(責任を取らない為の見事な文章)や法律文章(論理だけでは片付かない)などとは違い、紛らわしく難しく書く必要はないと考えている。(発明くん2016/08/22)