日本語の難しさを改めて知りました。
「都合の良い話」しか聞こえない不思議な我が耳は、名医の施しで「都合の悪い話」でも聞こえるようになった。てなことで本年はブログを再開したいと思う。新年早々、脱線気味の投稿で申し訳ないが本年もどうぞよろしくお願いします。
カミさんの友人が、おもしろい発明をしたので聞いて欲しい、ということで茶飲み会をした。おばちゃん同士の話は、あらぬところへ「アッチ、コッチ」と唐突的に飛ぶ。しかしチャンと伝わるからすごい。
「亡くなった主人の母が・・・」が耳に入った。私は主人が亡くなったのかと取った。お悔やみの言葉を捜しているうちに、亡くなったのはどうも主人の母親であることが判明した。カミさんは日頃からお付き合いをしているので主人の母親が亡くなったことを知っているわけだ。私はその様な背景を持ち合わせていない。
同じ仲間(村社会)であれば理解できるのであろうが、村人でない私には背景が分からない。私が翻訳したら「亡くなったのは主人です」と訳す。カミさんは「亡くなったのは主人の母親です」と、正しく訳せる。このように日本語は曖昧で係り受けが不明確である。聞く人、読む人の判断によって意味が異なることが生じる。係り受けの分かり難い文章が「知財文書」にも使われているとすれば、翻訳が難しく誤訳をおこすのは当然である。
(発明くん/2016/1/12)