幕末、伊豆の西海岸にある戸田(へた)村沖でロシアの軍艦(帆船)が難破した。
そのとき、戸田の船大工が代替の帆船を作り、乗員は無事ロシアに帰ることができた。当時の船は修理しながら航海するので、軍艦にも造船技術士官が乗り込んでいたので、彼の描く図面に基づいて、船大工が仕立てたのだ。このことからわかるように、同じような水準の技術や技能を持っている集団であれば、たとえ言葉がまったく通じなくとも、新しい製品は作れるということだ。
戸田の船大工は当然ながら、千石船で代表される和船を作った経験しかなかったが、その高い造船技術が役立ったわけだが、それでも簡易図面だけで良くぞこしらえたものだ。
日本のメーカーが世界に出かけて、そこで製品が作れるのも、現地の人に一定の技術・技能水準があるからだろう。もちろん、こちらから出かけていった担当者の涙と汗の物語がそこにあるにしても、不可能ではないことは数多くの成果が実証している。
モノ作りの場合はまだ何とかなる。言葉が通じなくとも、身振り手振りと、目の前でやって見せることで何とかなる場合も多いだろう。これが、たとえ図面という補助手段はあっても、言語の記述だけで、すなわち「仕様書」だけで、その中身を、相手に、文化の背景をまったく異にする相手に伝えることは、至難のわざとなる。
自然科学の世界において100%に近く、技術の世界において90%、ビジネスのシステムにおいて70-80%、社会システムにおいて60%の割合で、近代工業化という面でほぼ同じような社会においては、民族と文化が異なっても、これぐらいの共通部分があるだろう。それが文明というものだ。そして、言語の完成度においても、互いの言語は異なっても、同じような水準にあれば、一つの言語で記述された科学や技術やシステムは、他の言語に転換できるはずである。元の意味が伝えられない誤差は10%は残るかもしれないが。
原日本語に漢語を接木した日本語の完成度はどれくらいだろうか。
私は、潜在力としては十分に高い、実用に耐えうるものだと考えている。しかし、世界で共通でありうる概念や製品やシステムを表現する、特定すれば記述するためには、できるだけ論理的に明確に記述するための標準が必要なのではないだろうか。
標準作りは大げさにしても、英語やドイツ語やフランス語と同じような水準で、概念や事実やシステムを記述できる言語に、日本語を仕立てる努力は必要である。
例えば、日本がEUの一員であっても、今のままの日本語の状態では、公用語の仲間入りはできないだろう。演歌や和歌の世界は、それぞれの民族の勝手だから、他者に伝えられなくともよい。日本の演歌は何を言っているのかわからないから、何とかしてくれと他国から言われることはない。しかし、ビジネスや技術の世界では、あるいは国際社会の運営の世界では、もう少し分かりやすい日本語で説明してくれと言われるだろう。それができるまでは、公用語には認めてくれないだろう。
国内の特許明細書の日本語が極めて特殊なものであっても、誰もがそれでいいのだとするなら、それは日本村の中の方言だから、世界からとやかく言われる筋のものではないかも知れない。しかし、その方言を英語やドイツ語に翻訳できると思い込んでいる人が多数いることは、あるいは誰もその点を問題視していないことは(少なくとも表面的には)、いかに日本人が世界の中のイナカッペであるかの証拠と言えるだろう。
世界共通の文明に属する事項(モノや技術や原理や概念)を日本語でできるだけ明確に表現するためには、大いなる努力を注がねばならない。この事実に気がついている人がいかに少ないか、上に記した特許関連世界の現状が一つの実例である。
年間16兆円もの研究開発投資をしているのだから、せめてその1%ぐらいは、世界に通用する日本語の研究開発に当てるべきではないだろうか。ただし、この場合、既存の言語学者はほとんど役に立たないだろう。自然科学・技術とビジネスの前線にいる人に委託しなければならないだろう。
(06.1.6. 篠原泰正)