いうまでもなく、何事かを成し遂げるためには、そこに論理的展開とその表現が必要となる。
しかし、それ以前に、事実の把握がなければ、論理の展開も成しようが無い。もちろん、論理的な思考がなければ、事実を把握することはできないともいえるが、そこまで考えをめぐらさなくとも、単純な事実が目の前に突きつけられた場合を想定してみよう。
自社の製品である自動車が、走行中に車輪が外れるという欠陥を示したとする。このことは、厳然たる事実であり、車輪が外れる事は人の命に関わる重大欠陥であることは、素人でも理解できることである。人の命に関わる事故を起こせば、会社のイメージを大きく傷つけるであろうことも、馬鹿ではない限り予想できることである。従って、この欠陥は、その会社のトップにまで、直ちに報告されなければならないはずである。
ところが、どういうわけか、日本の大手企業では、このような重大欠陥がトップに直ちに伝わらない場合がある。トップがワンマン社長で獰猛な人である場合には、まずい事実を報告すると雷を落とされるので、誰も報告に行きたがらない、という場合もあろう。あるいはトップが馬鹿殿であって、何を報告しても「よきに計らえ」であれば、報告しても無駄なので、誰も事実を伝えない場合もあるかもしれぬ。このような場合はトップの資質の問題から生じるわけだから、ここで取り上げる話ではない。
問題は、現場からトップに至るまでのルートの途中にいる指揮官が事実を隠してしまうところにある。ことの重大さを認識できない、つまり指揮官としての能力の無い人が事実を放り投げておく場合もあるだろう。あるいは、ことの重大さは充分に認識しているのだが、そして多分重大さを認識しているがゆえに、欠陥をもたらして責任を問われることを怖れて、つまり保身のために、ことをローカルな局面内でこっそりと処置してしまおう、という場合もあるだろう。欠陥の責任を他部門に押し付けて逃げを図る指揮官もいるだろう。
ある問題事実がトップをはじめ関係する全ての部門に、速やかに正確に伝えられれば、その対策を考え出す能力はどの企業にもある。そもそもそのような能力がなければ、ある製品を開発し市場に出すこともできないだろう、欠陥の事実を分析し、問題箇所を見いだし、その改善策を考え出すことは、メーカーであれば、大なり小なり日常行っていることで、それほどややこしい話ではない。
それなのに問題が隠され、こっそりローカルに処置がはかられ、その間に事態はますます悪化し、最後はドカンと大爆発して、会社全体を揺るがすような大問題にまでなってしまう「事件」が、未だに生じる。
事実を事実として伝えるには、勇気が要る。事実を事実として伝えることが義務であると認識するには責任感がそこになければならない。勇気も責任感も無い人はもちろんエリートではありえないが、往々にして、そのようなエリートではない人がエリートが執行すべき職にいるところから悲劇が生じる。
(06.1.4. 篠原泰正)