英語で「language」は、ラテン語オリジナルであり、原義は「舌」である。
このことからもわかるように、欧州においては、言語とはまず何よりも「話す・語る」ことであり、書く・読むとしての言語は二の次に位置されている。
フランス語やスペイン語を習った人なら覚えがあると思うが、習い始めたころには、人称に伴う動詞の語尾変化の多さに、尻尾を巻いて逃げ出したくなったはずだ。しかし、驚くことはないのであり、これらの変化は基本的に、「話す」ときに話しやすいように変化しているだけなのだ。このことだけを見ても、彼らの言語はまず何よりも「話す」ためのものであることがわかる。
結果として、彼らの「語り」は、ほぼそのまま記述の文章に定着さすことができる。もちろん、日常会話的な場面を想定してではなく、計画の提案説明や講演などの場面においてのことを、ここでは述べている。さらに、語られる文章がほぼそのまま文字文章に移し変えられるためには、それなりの訓練を高等教育の場で受けてきていることも重要な要素といえるだろう。彼らの社会では、論理的に「語れない」人は、エリートの資格を与えられないことになる。
もちろん、そのような「エリートの語り」を嫌う多くの民衆も存在するわけで、ブッシュジュニア大統領の人気がゼロにまでは落ち込まないのも、そのあたりに理由があるのだろう。
もう30年前ぐらいになると思うが、当時アメリカでディクテーションマシン(dictation equipment)という機器が人気であった.。何に使うかといえば、会社のオエライさんたちが、手紙とか報告メモなどを特別のアプリケーション付きのテープレコーダーに吹き込み、後で秘書がそれを聞きながら、猛烈な勢いでタイプライターを打つという仕組みである。咳払いやアーとかウーとかの余計な部分は秘書が気を利かせて削除するだろうけれど、基本的に語られたままタイプすれば、手紙や報告書が一丁あがりとなる。
いつの世にもおっちょこちょいな奴はいるもので、これはすばらしいマシーンだと、日本でもヒットさせようと企画した人がいる。(私ではない)。想像できるように、日本ではまったく受け入れられなかった。すでにワープロ専用機は市場に出回りはじめていたので、タイプを打つことができるOLがいなかったわけではない。そうではなく、幻のヒット商品と成り下がった最大の原因は、語ったまま文字文章になるような技能を持った人は、日本のどこにもいなかったことにある。さらに言えば、日本の会社のエライさんは、否、えらいさんどころか「課長」以上の管理職になれば、すでに自分で文書を作成することはほとんどなくなるという慣習がそこにあったからである。
われわれの「語り」はそのままでは手紙やら報告書の文書にならない。
日本語は、原日本語(やまと言葉)の構造の上に無数の漢語を積み重ねて成り立っており、その二重構造が「語り」の不器用さを生み出し、今に至るまで解決しないままとなっている。一方、文字を用いて文章を書こうとすると、この輸入品である漢語なしではどうにも表現できない。しかも、表意文字である漢字を使うわけだから、文章として整っていなくとも、書かれた文字(漢語)をながめるだけで、およその意味を受け手(読む人)はつかむことができる仕掛けになっている。
日本語の書き言葉としての文章は、したがって、文章というより「単語」の連続展示で意味を伝えることが基本となっている。話し言葉の場合も、話し手が言う単語に合致する漢字(漢語)を頭の中にイメージすることさえできたら、それで、なんとなく、受け手はわかった感じになる。したがって、文章ではなく単語、あるいは短いフレーズでしか語らない首相であっても、「カンドウシタ」が「感動した」と国民がイメージできれば、その職は勤まる仕掛けになっている。
識字率は中世の昔から世界ナンバーワンであっても、論理的な語りができる、論理的な文章が書ける人が日本では極めて少ないのも、当然の現象と言えるかも知れない。
欧州の言語は「語り」にその土台を置いており、日本の言語は書かれた「単語」にその土台を置いているといえるのではないだろうか。
論理的な日本語文章を書くようにしようという運動は、このことを考えると、日暮れて道なお遠しの感がある。
(05.12.6. 篠原泰正)