独学のススメ(17)
教育(education)というのは、この場で何度も書いてきたように、子供達が各人各様に持つ才能を伸ばす支援をする作業である。子供がまだ自分の才能に気が付いていなければ、それを引っ張り出し元気付けし、勇気付けしてその才能を伸ばすお手伝いをすることを意味している。
その才能は、大きく分けると、知ることと作り出すの二つの分野に分けられる。そして、その二つを掛け合わせることで、一人一人が自分の頭で考える力を付けていき、同時に、外界の様々な事象や他者(自分以外の生き物)の存在に感じる心(感性)を豊かにしていくことになる。
「知る」においても「作り出す」においても、それらは喜びでもってなされる、つまりその行為が楽しいことが基本に必要である。決して苦痛を伴うものであってはならない。とは言え、一人一人の才能はどこかの分野で突出しているものだから、反面で言えば、その他の分野は苦手となる場合がほとんどであろう。苦手が苦痛にならないようにするには、自分が突出している分野に自信を持たせることが必要である。”俺はこのXX分野では圧倒的に強い”という自信があれば、苦手の分野もそこそここなしていけるようになる。あるいは見切りができるから、適当にお茶を濁して学科をこなしていけるようになる。
このような教育において、最大の障害に「試験」という制度がある。試験というのは正しい答えを出すことが要求される。そして、試験の採点をできうる限り公正にしようとすればするほど、その答えは「ディジタル的」解答になっていく。白か黒かの2値の世界になっていく。
小学校から大学まで、この試験に良い成績を取る、すなわち正しい答えを出すことという関門に悩まされて育ってくると、どういうことになるだろうか。一つは、この世の中の出来事には全て「正しい答え」があると思い込む馬鹿が出来上がってくることになる。これは、「正しい答え」を出すことにおいて優秀な成績を残してきた人間ほど顕著に現れる現象である。社会人となったときのここでの弊害は、教科書に書かれていること以外の出来事に出会うと、うろたえてしまって、つまり正しい答えを出さねばとあせり狂って、呆然自失の様に出てくる。また、正しい答えを出すための訓練だけに集中してきたために、答えが明らかではない(明らかではなさそう)事項には手を出さないという態度に表れてくる。会社で言えば、新規の商品や新規事業に手を出さないことに現れてくる。さらには、この裏返しのところには、失敗することを極度に、あるいは病的に恐れる姿勢がある。一かゼロかの2値の答えがなさそうなことに手をだして失敗することを極端に恐れる。
もう一つは、知る喜び、作り出す喜びを感じることなく学校生活を送るようになる。喜びとは「好き」でやるから出てくるものであり、好きでやることは往々にして没頭することになる。のめり込んでしまう。各種の学科での試験でよい成績を残すためには、この一つのことに「のめり込む」はご法度である。これをやっていると間違いなく試験の成績は哀れな様相を示すようになる。世の仕組みにさとい子供は、それゆえ、好きなことがあっても、その何かにのめリ込むことを避けうまく世渡り、すなわち試験で良い成績を残す作業に専念していくようになる。そして、社会の仕組みが何であれ、自分の得意分野、すなわち一芸にのめり込む子供は「落ちこぼれ」ていくことになる。
知る喜び、作り出す喜びを感じ始めた子供がなぜ「落ちこぼれ」の運命に「落ちて」しまうのか。その喜びを育て伸ばすサポートを誰もしてくれないからである。そのような環境の中で自分の得意分野を見つけ出しそこで才能を磨こうとする子供または若者は、一人でがんばる孤独な戦いを強いられることになる。
日本の教育システムは「education」の反対の極地、「子供の才能殺し」システムとして存在している。
(13.06.03.篠原泰正)