独学のススメ(16)
もう半世紀近くの昔になるが、初めて欧州の地に赴いたとき、ここは石と煉瓦文化の地だという印象が強かった。簡単に言えば違和感が強く冷たさを感じたものだ。木造の建屋を見かけなかったためにその印象がより強かったのかもしれぬ。
話は急に飛ぶが、欧州の言語、例えば英語とかスペイン語とかを学習する上で、自分も含めて日本人が混乱する要素の一つに時制がある。簡単に言えば、彼らは時の移り変わりの規定がやけに厳密であり、簡素化されている英語でも普通の過去形のほかに現在完了や過去完了などがある。ラテン語(ローマ語)の末裔の一つであるスペイン語(俗ラテン語の中で最もよくラテン語の形を残していると言われている)では、さらによく使われる不完了過去が加わり、なんと大過去や直前過去なんてのもあるから、これでは文法書を見ただけで回れ右する学生が出ても不思議は無い。そこへいくと日本語は気楽なもので、過去は過去形一つである。過ぎた昔を何で厳密に区分しなければならないのか、われわれには理解の外にある。
石の文化は、例えばかつてローマ帝国の支配下にあった各地に残る高架式水道などのように、なんせ建造物がなかなか壊れないから、どうしても過去を引きずるのだろう。一方、われわれこの日本列島に住まう集団は、建屋は木で作ってきたから、「形あるものはいずれ壊れ消えていく」と承知しており、移ろいやすい時間へのこだわりが少ない。何しろ温暖な気温と雨が多い土地であるから山でも野でも木がよく育つ。材料に困らないから壊れても平気である。それだから、文化的には「今現在」に生きている集団であり、時制という文法は必要としない。過去形は一つで十分である。時制については、日本語は現在形の言語と言ってもいい。
話を戻すと、この列島の木造建築は世界でも一番の美しさを持つ。どこからその建築技術が来たのだろうか。私の意見では、ど素人の大胆な見解としては、二つの源流、あるいは三つの源流がある。一番目は縄文人の木造建築であり、これは青森の三内丸山遺跡に見られるようにとてつもなく太い丸太を柱にした高層建築を特徴とする。遺跡から想像できる建屋の姿は豪壮なものである。これに似たところがあるが、出雲の建築もその大社に見られるように太い柱が目を引く。出雲人がどこから来たのか私は知らないが、明らかになにやら異質の趣がある。そして三番目が水田稲作技術を携えてこの列島に移住してきた弥生人の木造建築である。
この列島に確立した木造建築技術はこの三流が混ざり合わさったものだろう。あるいはより厳密に考えれば、弥生人が根付いた主に関西の地に朝鮮半島から集団で亡命してきた百済人が、仏像やらなにやら洗練された文明の一つとして木造建築技術も持ってきたと思われる。弥生時代にはなにやらバラック風のちゃちな建物であったのが、ここで繊細な建物に進化していく。
話はまた飛ぶが、小学生の時に教科書や源平盛衰記の挿絵などで見た平安時代の貴族の屋敷、多分寝殿造りという名の建物は不思議であった。京都の冬は寒いはずなのに、すけすけの吹きさらし屋敷である。誰がこんな建築図面を持ってきたのだろうか。南太平洋の島から来た人が建てたのなら話はわかる。どう見ても南方風である。一方、奈良や京都に建てられた大寺院は太い柱の豪壮な建築である。どこからこの建築技術を学んだのだろうか。縄文人の末裔を大工に雇ったのか?
戦国時代の城を見れば、その天守閣などは太い柱を軸にした豪壮な建築である。石垣で土台を作っているがその上に立つ建屋は木造建築そのものである。しかし、豪壮とはいえ、欧州の中世の城とは異なり、簡単に焼け落ちてしまう。天下一を誇った大坂城の天守も1615年の夏の陣であっけなく燃え落ちてしまった。一方で、豪壮な天守閣を建てているかと思えば、庭の片隅に建てられた茶の湯のための建物なんぞは繊細と簡素を掛け合わせたようなひっそりとした小ぶりの木造建築となっている。
話がなかなかまとまらない。この列島の世界に冠たる木造建築技術がどこから来たのか答えを探しながら書いているのだから、まとまらないのも仕方がない。まとまらないついでに言えば、石垣の技術も不思議だ。これは多分稲作技術と共に持ち込まれたものだろう、水田稲作には灌漑技術が不可欠であり、水路を作り維持するために石垣を組むことは必須の技術だったはずだ。
そうなると、城の石垣を設計施工した集団はどうやって育ったのだろうか。大工の棟梁は木造建屋の親分であり、堀の石垣、天守の石垣まで面倒見たとは思えない。「土木建築」は英語で言えば「civil engineering」であり直訳すれば「文明工学」だが、この言葉の発祥のローマのように建物といえば石の建造物を意味していれば、道路も水道も神殿も建築の親方は一種類であったと思われる。ところがこの列島では、でかいお寺や神社を建てる宮大工の棟梁が石垣まで指揮していたとは思えない。別種の親方がいたはずである。
木造建築を守備範囲としていた大工のことを書こうとしているのだが、なかなか本題まで至らない。疲れたので、きょうはここまでにする。
(13.05.19.篠原泰正)