独学のススメ(15)
人間とは「表現する動物である」と定義することが可能であろう。頭と心の動きをベースに何ごとかを表現する場合、三つの分野を選ぶことができる。言葉と造形と音(音楽)の三つである。そして、このいずれの分野においても、何ごとかを表わすためには、頭と心だけでは足りず、表わすための「腕」が求められる。腕とは持って生まれた才能を修練によって磨きをかけたものであり、何ほどかの努力がそこには求められる。
何のために「表わす」のかという視点からみれば、何のためという目的を持たず、少なくとも意識することなく行なう個人的表現行為と、社会のためといった何ほどかの社会的つながりを前面に出した社会的行為に分けられる。
一人一人の人間、つまり個々人は、誰であっても、上に挙げた三つの分野のいずれかに個人的か社会的かを掛け合わせた所に、得意とする場を持っている。持っているはずである。教育というのは、単純に言えば、この個々人それぞれ異なる得意の場を伸ばせるように支援することに他ならない。
自分の得意の場を見つけ出していくには、その土台に「興味を持つ」という頭と心の動きが求められる。あれこれに興味をもつところから出発して、大きくなるに従って、自分の得意分野、言い換えればもっとも興味がある分野が絞られてくる。従って、教育とは、まず何よりも、子供達のあれやこれやに興味を持つ頭と心に水をやって伸ばしていく作業を意味する。幼児が歳を重ねるごとに自分の目の前の視野は広がっていき、これは”なんで?なんで?”の不思議の世界が広がっていくことでもある。
もし、この成長過程で、教育の場において(学校だけでなく親によるものも含め)、この”なぜ、なぜ”に対して、”うるさい、教科書に書かれていることを覚えればいいのだ”との指導が入ってしまえば、子供の好奇心はつぼみのままで枯れてしまうことになるだろう。自分の頭で考える力を養えず、何を見ても心が動かない、怪しげな子供(若者)が出来上がっていく。
カラオケで演歌や北米のカントリーソングを歌えば、私もそこそこの実力はある(と本人だけが思い込んでいる)のだが、三つの分野の内の、音楽による表現にはまったく才能が無い。従い、音楽について何ほどかのことを述べる力は無いので、造形と言葉の二分野だけが私の守備範囲となる。このところ、造形について考えここで書いているのも一応守備範囲としているからと承認が得られればありがたい。
ともかく、「表現する」という行為は動物の中で人間のみがなしえる高貴な行動である。現在われわれの前に展開されているこの近代文明社会においては、この高貴な行為の育成に支援が少なく、それどころか出掛かった芽も摘まれる有様であり、また職業としてもほぼ壊滅的な状況に置かれている。
「言葉」に関しては、この「村塾」の場でこれまで7年以上、あれやこれや書いてきているので、しばらくは脇に置いて、当面は「造形」に関する考察を続けたい。職業と表現の関係については、造形の話が一段落したところで取り上げることにする。
「造形」は、何物かを作り出す、あるいは何事かを作り出す力を育てる上で多分もっとも重要な分野であり、またこの列島に住まう集団が大昔から得意としてきた分野であるから、もう少し考え続ける価値は十分にあるはずである。
もう一度確認しておくが、何物かまたは何事かを表わすという行為は極めて「高貴な行為」である。そして、現在の教育と社会での「仕事」という場においては、この「高貴な行為」の叩き潰しが行なわれている。
(13.05.13.篠原泰正)