独学の進め(14)
”これからの時代の男は料理ぐらいできなくてどうする!”、と母から厳しくしつけられたお蔭で、私は一人でいても餓死しない程度に一通り料理はできる。ただし進んで台所に立つほど料理にたいして情熱を持っているわけではない。母の教えは、多分、連れ合いの、つまり私の父に対するイラッチの反動であったのかも知れない。何しろ、この男、多分生涯で一度も自分でお湯を沸かしたことがないのではないかというぐらいの、典型的な昔のニッポンジン男性であった。「男子、厨房に入るべからず」というわけだ。
ただし、この禁止事項は大昔からかといえば嘘である。その証拠に、戦国時代では名だたる大名であっても料理の達人もいたぐらいだから、その昔は男子も厨房に喜んで出入りしていたのだろう。あるいは、時は戦国であるから、どこにいても野垂れ死にしないように、男も自分の食事ぐらいは自分でなんとかするぐらいの鍛え方を受けていたのかとも思われる。
料理というのは原材料を加工して食べられるように仕立て上げる作業であるから、当然のことながら「創造性」を要求される。それゆえに、料理という創造は楽しいものでもある。高度な創造作業であるから、そこでは完成という到達点は無く、毎回毎回小さな失敗をしながらの積み上げでもある。それだから楽しい。
食欲を満たすための、毎日やらねばならない作業であると同時に一つのものを作り上げる楽しさをもった料理も、良い原材料(食材)があってのことである。新鮮な野菜であり、新鮮な魚などが手に入らなければ、料理の楽しさも半分は消えてしまう。出刃包丁を振るって、まな板いっぱいぐらいある魚を切り分ける作業があってこそ、創造の喜びが得られる。
スーパーで切り身の魚を買ってくる今日では、このような創造の喜びは得られない。流通の発展(?)のお蔭で、ここでもまたわれわれは一つの大きな喜びを無くしてしまったことになる。安価、効率、手軽さ、便利さを追い求めてきた結果、味気ないお手軽調理の食事、どこで取れたのか原産地もわからぬ魚や野菜を「栄養」のために、明日への活力のために食しているだけの哀れな存在にわれわれは堕ちてしまっている。
しかも、そのような精神的あるいは美学的堕落だけでなく、肉体にたいしても、食卓は危険な場に成り代わってしまった。ゴマンとある化学物質で土壌や水や海が汚されてしまっているので、何かを食べるたびに遅発性の時限爆弾を飲み込んでいるようなものだ。何がどうしてどうなるのか、ほとんどのことはわかっていない。壮大な動物(人間)実験に晒されていることになる。
それだからこそ、料理という創造活動はますます重要になっている。自分で料理をすれば、食材の安全性を考えざるをえない。この安全性は自分で計るしかない。お上を頼っていては人間モルモットになるだけである。自分の身は、家族の安全は、自分で守るしかない。単に焼くだけ、電子レンジで「チン」するだけ、お湯を注ぐだけ、挙句は出来合いの完成品(惣菜)を買ってくるだけでは、それは料理とは言えない。そして、当然、安全への意識も育たない。
家のかみさん(山ノ神、嫁、女房)に頼っているだけでは、身の安全も怪しい。男子も厨房に入りたまえ。それでもって、料理の楽しさを取り戻し、同時に、なんとか少しでも安全な食材を求める意識を高め、さらには入手ルートを考えることを始めるべきだろう。私のように、もう古びた存在には、化学物質がゴマンと攻めてきてもびくともしないが、若い世代ほどこのことは大事である。居酒屋でわけのわからないものを食っている時にはアルコールで消毒されているから、マア別状無いだろうけれど、家庭の食卓は守らなければならない。この防衛戦は同時に料理の楽しさを味わうことでもある。
(13.05.11.篠原泰正)