独学のススメ(13)
この日本列島の住人が昔から造形感覚に優れていた原動力の一つに「漢字」の存在があることは間違いない。子供の時から意味を持っている文字(表意文字)である漢字を書くことが造形の腕を磨く訓練になってきたことは間違いない。
と、えらそうに書き始めたが、字を書くことについて何ほどかのことが言える資格を私は持たない。小学高学年から中学生にかけて、私は母から字をきれいに書くようにと何度が強制的指導を受けた覚えがある。子供が何をするかについてはほとんど口を出さない親であったが、字をきれいに書くことだけはうるさく言われた。人間としての基本教養のものとされていたのだろうか。あるとき、”坂本竜馬も字がうまくなかった、個性的な人間は「お手本」どおりに習うのは嫌なのだ”と抵抗したことがある。そのときのカウンターは、”あほらし、竜馬のような人間になってから言いなはれ”(母は神戸人である)という強烈なパンチであった。結局、坂本竜馬の如き存在にもなれず字も汚いまま人生ここまで来てしまった。もっとも、一度だけ字がきれいだとほめられたことがある。遊学時代、イタリアのジェノバでぶらぶらしているときに知り合ったローマ大学の友人の家に誘われて1週間ほどお邪魔したときに、彼に何度か書いた手紙の文字を彼の母親からほめられた。”あんたも見習ってもっと字をきれいに書きなさい”と彼はとっちめられていた。民族は違えどどこでも母親は同じようなことを言うものだとおかしかった。
話はそれたが、束縛されることをもっとも嫌う性質の持ち主としては、「お手本に習う」という強制は我慢のならない話で、今に至る字の汚さはこれがわざわいしたといえる。それならば、お手本に習わず、自分できれいな字を工夫すればよかった、と今にして思う。そんなことが可能であったかどうかはわからないが、字は自由に書いていい(もちろん他の人が読めなければならないが)という指導が当時あれば少しは違っていたかとも思う。
お手本とはなんだろうか。優れた書道家は誰もが基本の字、例えば王義之をお手本にしていれば、本物と見間違う(素人目には)ほどの字を書くことができるらしい。(ピカソのデッサンの写実性はすさまじいという話を聞いたことを思い出す)その上で造形美術としての自分の字を書ける(描ける)ようになるとのことだ。お手本を前にしての長い鍛錬があっての話だから、私はどちらに転んでも結局きれいな字とは無縁であったことになる。
プロの書道家や画家は特別扱いで傍に置いておいて、われわれ一般人と文字を考えると、もう少し自由に書かせてくれていれば、という思いはする。小学校や中学校では今でも習字の教科がある(無い学校も増えているそうだ)ようだが、子供全員に同じ言葉を書かせるやり方は嬉しくない。クラス全員が「明けましておめでとう」だの「大海原」だのと同じ言葉を書いている風景はいただけない。お手本にどれだけ近く書け(描け)ているかを競わせているようで味気ない。ここにもまた型にはめる指導がある。こども一人一人に好きな字(または言葉)を選ばせ、書きたいように書かせれば、習字に興味を持つ子供が何人も出てくるのではなかろうか。造形とは、見る人に不快な思いを持たせてはいけないけれど、よい悪いの点数をつけるものではなく、作った本人が満足していればそれで十分なのではないだろうか。特に子供においては。
造形とは外からの束縛からも心の中の束縛からも自由なところで、本人好き勝手に展開することで何ほどかのレベルで心を豊かにするものであるはずだ。そう考えれば、小学校や中学校の年頃における「絵描き」や「習字」(本来は文字描き)は極めて重要な教科である。
(13.05.10.篠原泰正)