独学のススメ(8)
旅の楽しみは出発前からある。地図を広げてこれから行く土地の姿をあれこれ想像する楽しさに加えて、どのような経路でどのような乗り物で行くか、計画を立てる楽しさもある。
ただし、これは昔の旅の話のようである。今日では、ナビゲータという「便利な」道具が安く手に入るようになり(道具はケイタイだけで十分になっている)、多くの人が、多分国内の移動だけだろうが、この道具に頼るようになった。GPS(Global Positioning System)というかつては軍事用に開発された技術と施設(衛星)とディジタル地図の組み合わせによって、人は自分が今居る場所を地図上で確認でき、さらには地図とデータベースの組み合わせによって、地名とか何とかを入力して検索を委託するだけで、行き先までの道筋が示される。結構である。しかし、ホンマに結構なことか?
かつてナビゲータ(navigator)とは船においては航海士であり、商船においては船長に次ぐオフィサーの仕事をこなす。最も大事な役目は夜空に輝く星の位置を測定し(天測という)海図にこれまでの航跡を書き記し、これから向かう方向を定めることにある。軍用飛行機においては単座の戦闘機以外は偵察員がこの仕事を担当した。旧(日本)帝国海軍においては操縦員と偵察員の階級が同じ場合は偵察員が機長を勤めるきまりになっていた。海の上をどちらに飛べば目的地点に行き着けるか、どちらに向かえば帰りつけるか、それを決めるのは偵察員の計算に頼るしかないから、当然その機の責任者となる。これが単座の戦闘機となると航法(ナビゲーション)も自分でやらなければならないから大変である。(編隊からはぐれた場合)。兵学校でも予科練でも、生徒の採用に当たって、海軍が「数学」の力量を重視したのはこれが理由である。私のように数学に弱い者は、例えやる気満々で体力も運動神経も十分であったとしても、これらの学校に合格する確率はまったく無かったことになる。
話がそれた。
数学に弱くとも、昔は、地表を旅するだけなら、地図と、鉄道の場合はそれにプラスして時刻表さえ持っていれば十分であった。旅の楽しさはこの二つの道具をかばんに入れて出発するところから始まる。車で旅する場合は道路地図さえあれば十分である。どのルートで行くか、それを決めるのは自分であり、何らかの不都合に出会えばそれも自分の責任である。頭と気力が鍛えられる。16歳の時から単独行をはじめ26歳で打ち切るまで、私は旅先の旅館(ホテル)を予約したことがない。すべてその日に行き着いた先での「飛び込み」で困ったことはない。もっとも、16歳の春休み(高校1年終了の休み)にスクーターで東海道を下ったとき、名古屋の熱田神宮近くの旅館に泊まったときは、そのたたずまいがなにやら怪しげで、部屋にはピンクの電燈が灯っており、途惑った覚えがある。後で気が付いたのだが、あれはどうやら「連れ込み旅館」であった。
また話がそれた。
何が言いたいのか。そう、最新のITであるナビゲータに頼ることが当たり前の習慣になると、頭がぼけるのではありませんか、とたずねたいのだ。あたしはどこへ行くのでしょう、とすべて他人(ひと)まかせで生きていると、頭が退化するのではないですか、と気になる。同時に、旅の楽しさが一つ失われてしまいますよとお節介を言いたくなる。また、自主的に旅をしているのではなく、なにやらルートに沿って「運ばれている」物体になるのでは、と嫌味を言いたくなる。旅する人ではなく一個の輸送貨物になってしませんか。
貨物は「考える」必要はない。文字と数字を入力するだけである。ナビゲータの指し示すままに移動していては、周りの風景も心に響くことが少なくなるのでは、と余計な心配も出てくる。見知らぬ土地に出会った「感動」が小さくなってしまうのでは。頭も働かず心も動かない旅は旅ではない。輸送される物体に過ぎない。
道路や鉄道のナビゲーションだけでなく、飯食いに行くのも酒飲みに行くのもナビゲーションに頼っていては、立派な「ナビゲーション馬鹿」が出来上がるのではないでしょうか。そして、この道のもっとも恐ろしいところは、社会の様々な出来事に対して、権威ある(と称している、またはそれらしき肩書きを持っている)人が、”右だ”と指し示せば右に行き、”左だ”と言われれば左に行く羊の群れになるおそれが出てくるところにある。ここまでくれば、真正の「ナビゲーション馬鹿」の完成である。
(13.04.12.篠原泰正)