独学のススメ(5)
我が家からラジオ(radio 受信機)という名の家電が姿を消してからもう何十年になるだろう。小学生の時、家にあったラジオの形は今でも覚えている。茶色の木製の箱で正面左に網目の布の奥にスピーカーがあり右側には目盛りに針を合わせるダイアルが付いていた。放送局の周波数に針をうまく合わせるにはそれなりのテクニックが必要であった。
ラジオから流れてくる番組は、NHKのニューズ放送以外は、なんと言ってもまず大相撲である。アナウンサーのしゃべりから土俵の熱闘をイメージして手に汗握るということになる。ヘルシンキからのオリッピック放送は、高くそして低く、近くそして遠く聞こえるアナウンサーの声だけを頼りに力泳する古橋選手の姿を想像し”イケ、イケ!”と心の中で祈る。
いやそれにしても、当時のアナウンサーの表現力はすごかった。言葉一つで聴く人にあたかもその場に居るがごとき興奮を呼び起こす。いや、アナウンサーの力だけではない。聴く方もあらん限りの想像力を働かせて伝えられてくる現場を想像する。リアルタイムに伝えてくれるメディアはこれしかなかったのだから、受け手も全力対応するしかない。
スポーツだけではない。徳川無声朗読による連続放送、吉川英治原作の宮本武蔵などは、”むさしは・・・・”と語り出す声音までいまだに私の耳に残る。数寄屋橋で待ち合わせを約束した真知子と春樹の、出会いそうでいつもすれ違う話(「君の名は」)にはこちらまでやきもきさせられる。
そして突然のようにテレビの時代となる。中学高校大学と白黒テレビであったが大学4年の秋の東京オリンピックの時にはカラーテレビであった。日本選手団の赤のユニフォームの色を覚えているから、間違いなくすでにテレビに色がついていた。
テレビは映像(動画像)を送ってくる。そこではもう想像力を働かせる必要はない。いや、目の前に具体的な映像が突きつけられるので、想像力という機能は停止したままとなる。そして、送られてくる映像を「事実」と錯覚するところから、事実と虚構の区別が付かないバーチャルな世界に浸りっぱなしということになる。
今、50歳の人は、ものごころついた時にはすでに目の前にテレビがあったはずである。その受像機という箱が発する映像に、がきの頃から慣れ親しんできたがゆえに、現実とバーチャルの区別を意識する必要も感じなくなっていることだろう。
高度に発達した文明社会が人間の頭(知性、理性)と心(感性)にどのような作用をもたらしてきているのか。どこかでその分析作業はなされているのだろうか。昭和30年代、テレビが猛烈な勢いで普及し始めた時、評論家の大宅壮一氏が「テレビ・一億総白痴化」を唱えて世に警鐘を鳴らした。そのときから半世紀、結果は大宅壮一の言うとおりになったのだろうか。幸い、白痴には至らなかったが、想像力が大幅に失われた事だけは確かではないか。言葉だけでは(文字で書かれた文章も含めて)その場面を想像できない人が当たり前に増えてしまったのではなかろうか。
(13.04.03.篠原泰正)