独学のススメ(4)
広告媒体の王者は言うまでも無くテレビである。今現在50歳の人を先頭にしてそれより若い人たちは、多分、ものごころついた時には目の前にテレビがあり、コマーシャルが流れていたことだろう。その面では、50歳以下の世代はコマーシャルは空気のような存在であり、そのこと自体に疑問をもつことは無いのではないかとも思われる。50年という時間は短いようでありまた当たり前の存在として定着するには十分な時間であったとも言える。
昔、日本のメーカーに勤めていたとき、宣伝部の誰か(多分部長)からテレビコマーシャルのコンテスト会場の切符をもらったことがある。商品企画屋としてこれもまた勉強のうちと悟って、会場である有楽町の映画館に出向いた。短いコマーシャル(長くて数分?)が次から次へと映画館の大画面に写し出されていく。驚いたのはその画質の美しさと音声(音楽と人間の声)の素晴しさである。当時の家庭用テレビ(受像機)の画質は現在のそれと比べようの無いほど低かったので、元の映像がこれほどきれいに作られているとは予想だにしていなかったことからくる驚きである。同時に、この短いコマーシャル1本を制作する労力の大きさも想像できた。
話が逸れそうになったが、コマーシャルの本質はどれほど見る人を説得できるかにあるといえるだろう。企業そのものの宣伝であれば、見る人をして、あの企業は信頼できる立派な会社だと思わせ、商品の宣伝であれば買ってみようと思わせなければならない。このことから簡単に導き出せる結論は、コマーシャルとはプロパガンダ(propaganda)の一種であるということになる。
プロパガンダの手法を確立したのは1930年代前半に政権を奪ったナチス(ドイツ)党であり、この手法の有効性に真っ先に気付いたのが米国で、戦後すぐさまこれを商業の世界にも取り入れた。これが、テレビをつければ(NNHK以外は)いやというほど流れてくるコマーシャルの源流となる。
この手法の鍵は、繰り返すところにある。何度も何度も繰り返して、聞く人見る人の頭の中にテーマ(政治的イデオロギーから商品の名前まで)を叩き込むところにある。従って、コマーシャルを流して大いなる効果を得ようとすれば、何回も何回も同じ映像を流す必要がある。テレビ局はそのコマーシャルを流すことで事業収入を上げているだから、流すほうは高い宣伝費を用意しておかねばならないことになる。小さな会社はとても太刀打ちできない札束の厚さの鉄火場である。
繰り返すということは、簡単に言えば受けての頭の中を「洗脳」することである。洗脳されると頭で考える、判断する、決定すること無しに、ある場面に出会ったときに自動的に反応することになる。スーパーの棚に並んでいる同じような商品の中から「無意識」にある特定の商品を取り出して籠に入れることになる。繰り返し聞かされた/目にした商品名が頭の中のどこかに潜んでいるから手が伸びることになる。
高度に発展した文明社会の下で生きるということは、前回に話したサイバー世界の中で生身の人間との接触が薄れ、コンクリートで固められた世界で生き物との接触が薄れ、ここで述べたようにコマーシャルの洪水の中で判断する力を失っていくことになる。食べ物に事欠くことは無くなったし寒さに震えることは無くなったけれど、失ったものも大きい。不気味である。
(13.04.02.篠原泰正)