独学のススメ(3)
先週、27日(13年3月)の東京新聞に、福島第1原発をはさんで南北30キロの海岸線で、「イボニシ」という名の全国どこの波打ち際でも見られる小さな巻貝がまったく姿を消してしまっている、という国立環境研究所の調査報告に関する記事が出ていた。調査期間は昨年12年の4月から8月にかけてとのことだから、それから今現在までの半年の状況はわからないが、一度全滅した種が復活するには他所から同類が流れ着くかしない限り難しいだろう。
全滅の原因はまだわかっていないとのことだが、もちろん真っ先に疑わしいのは、海に流されたあるいは流れてしまった放射性物質で汚染された水ということになる。
それで無くとも、われわれの周りからは生き物が次から次へと消えていっている。前にもこの「村塾」の場で書いたと思うが、まず雀の数が極端に減ってしまった。電線にずらりと並んでいる姿はもうお目にかかれない。蚊もいなくなった。夏でも網戸はもう要らない。蚊取り線香もフマキラーもさようならである。そしてなによりも怖いのは蝶々である。蝶が怖いのではなく、居なくなったのが怖い。だいぶ前になるがイギリスの新聞で蝶々の存在が気象異変の度合いのバロメータであるとかの記事を読んで以来気になっている。
この近代200年の大都会というのは、日本列島では戦後の60年あまりだが、コンクリートと鉄とガラスで仕立て上げられた異様な区域となっているから虫や鳥が生息する場では無くなっている。私の頭の中では「自然」とはそこに生きる生物があってこそのものだから、空に飛翔する鳥影もなく地に走獣の姿もないゴビの砂漠のような存在は自然とは言いがたい。いや、そのような「自然」は想像を絶する。自然に親しむとはそこに生きる生物(植物を含む)と触れ合うことであるから、めだか一匹いない川で「遊ぶ」ということは成り立ち得ない。
自然を壊すということは、それゆえ、そこに生きる生物を根絶やしにすることを意味する。めだかやトンボや蝶々やキリギリスのholocaust、massacreである。
なるほど銀座には猫と見間違うほどの大きさのドブネズミも居るけれど、福島第1原発では放射能にもやられないドブネズミも居るけれど(しかし配電盤に入り込んであえなく感電死したようである)、近代の大都会というのは人間とカラスとゴキブリしか棲息できない不毛の地と化している。
このような環境で生まれ育つとどのような人間になるのだろうか。生命というものに無神経な存在になりはしないか。川に棲むめだかやゲンゴロウやフナやドジョウの存在をまったく意識することなく土手をコンクリートで固めてしまってもまったく心が痛まない人間になってしまうのではないか。原っぱでバッタや蝶やトンボと遊んだことのない人間は、公園整備という名の下に地面を掘り返してぬかるみにならないグラウンドに仕立、昔からあるくぬぎ、なら、樫の木を切り倒して「明るい」広場に変えてしまって「大満足」しているのではないか。
自然、すなわち小さな生き物と触れ合うことなく育つとどうなるのか。不気味である。そして、そのような社会にしてしまった俺達はいったいなんだ。
(13.04.01.篠原泰正)