独学のススメ(2)
携帯電話(mobile phone)および携帯電話とパソコンを合体したような「スマフォ」(smart phone)が花盛りである。朝夕の電車の中を見渡せば、乗客の約7、8割はこの小さな道具の画面を眺めて過ごしている。その画面で何をしているのか私は知らない。メールなのかゲームなのかチャットなのか。電車の中ならまだしも、歩いているときにさえこの小さな画面に見入っている人がそこら中にいるので、ステッキついてびっこひいて歩いている私のような前期高齢者にとっては危なくて仕方が無い。この平成の二宮金次郎の如き人々にぶつからないように、あたかも戦闘機パイロットの如く、油断無く前方に注意して歩かなければならない。つい先日も、電車を降りようとして、乗り込んでくる若者とぶつかりそうになった。画面見ながら電車に乗ろうとする人がいるわけだから、このようなニアミスの危険は日常的にありうる。
それでも男性のことはまだいい。あほが勝手にさらせ、と扱えばそれで済むが、若い女性の姿が気になる。
大昔、スペインのマドリ大学に「遊学」していたとき、かの地では通りを歩く若い女性に一声ほめ言葉を投げかける習慣があることにいたく感激した。例えば、自分がカフェの前におかれた椅子席に座っているとイメージしてもらいたい。そもそもカフェの椅子は歩道あるいは遊歩道に向けて置かれるのが標準であり、多人数(4-5人)で座っても少なくとも歩道に背を向けて座る馬鹿はいない。最低限歩道に対して90度の位置で座る。あなたがそこで歩道に向かい合って座っているとする。そのとき右の視界45度にきれいなねえちゃんが歩いてくるのが映る。その娘さんがテーブルの前を通り過ぎる瞬間に一声掛ける。その一声は自分の乏しい文学的才能を最大限に引っ張り出して、”天使というのは本当にいるのだ!”とか、”20数年がんばって生きてきた甲斐があった!”とか”エスパーニャが美のくにであるという意味が初めてわかった!”などなど。
そのフレーズに対して娘さんの方は横目でちらりと声の主を眺め、小さく「グラシアス」と返答してさっそうと行過ぎていく。その相手に対しては後姿も鑑賞しなければ失礼になる。少なくとも左45度の視界から消えるまで見送らなければ礼儀作法に劣ることになる。
スペインは美人の産地として世界で有名であるが、それはなにも民族、より端的にいえば親からの遺伝だけではなく、この様に、「見られる」ことを意識しそれによって日々自分を磨き上げている努力の産物でもある。人はその立ち居振る舞いを他人から見られることで美しくなりまた勇敢になったりする。そのための場として、都会は絶好の修練の場となる。都会の通りや広場や公共の場は「劇場」なのだ。
そんなことを考えながら、電車の中や歩道を歩きながらスマフォの画面にのみ集中している娘さんの姿を見ると、なにか哀しい。周りにいる若い男性や私のような高齢者の存在をまったく意識することなく、ディジタルな情報とのみ接触している姿が哀れである。娘さんにとってこの東京という都会は絶好の「劇場」、自分が主役の一人でありうる劇場であるはずなのに、自分だけの世界に閉じこもってしまっている。生身の人間との接触を避け、ディジタルの世界、すなわちバーチャルの世界に閉じこもってしまっている。ひと(他人)の眼によって自分を美しく磨くチャンスを捨ててしまっている。
生身の人間社会に入っていけない若者が増えている。そのような環境に仕立て上げてしまったのは私のような世代の責任である。無機的な社会、バーチャルな世界に追い込んでしまったのは俺達世代の責任である。スマフォという道具はそのような世界に浸るための格好の道具となっている。メールがありチャットがそこにあっても、それは生の接触ではない。ディジタルに変換された冷たい無機質なつながりである。
生身の人間が集まって作り上げていた「人間社会」の質が変わってきてしまっている。社会が「virtual society」になりつつある。
(注)「virtual」とは元々は「実際の」とか「事実上」のという意味であったが、現在では(多分)工学の分野で使われていた「仮想の」という意味が主流になり、ここでもその意味で使っている。
(13.03.30.篠原泰正)