今朝、地下鉄千代田線はいつもより随分と混んでいた。駅のアナウンスでは”こーせつのためダイアに大幅な乱れが生じています”ということだ。”こーせつ??”。頭の中の漢語データベースを忙しく検索する。「交接」?違う、これは雄雌の交合に使われることばだ。「降雪」、これだ。”ゆきのため”と言え。「ゆき」という美しいやまと言葉があるのになんで使わない。
と、これは余談である。この混雑は、動かない、あるいは本数が間引かれたJR常磐線から乗り換えてきた乗客が多くいたためであろう。「こーせつ」といっても、家から駅までの具合では、みぞれ交じりの雨であり地面に積もっているわけでもなかった。なんでこれぐらいで電車止めちゃうのだ。
交通機関というのは(主に)人を運ぶサービス業であるから、電車を止めてしまえばそのサービスを捨てたことになる。従って、本来は、電車をとめることには相当の覚悟が要るだろうと私なんぞは思うのだが、このごろはまことに簡単にすぐにとめてしまう。なぜか。
雪が降る、台風が来るという天気予報が出ると、なんでこれぐらいの雪で、これぐらいの風でとぶつぶつ言いながら乗客は別の交通機関を探さねばならない。なんで?答えの一つは、多分、会社の経営陣がリスクマネジメントを勉強し過ぎたのであろう。事故を怖れるあまり、何もしないでじっとしている道を選ぶ。電車を動かさなければ絶対に事故は起きないから、これはまことに賢明な対応方法である。自分達が何で飯を食っているかを忘れているから”チョー安全”な策を採る。人を運んで何ぼ、という商売をしていると自覚していないから、”なにかあるとこわいー”と引き籠ってしまう。宮沢賢治の”雨にも負けず、風にも負けず”という気概は無い。
もう一つ考えられるのは、電車の運行が全てコンピュータ制御で行われているからであろう。正常な運行をベースにしてプログラムされており、異常事態の制御に弱い。このシステムでもっとも簡単な制御方式は、一かゼロである。正常に走らせるか、全部止めるかのどちらかしかない。もっともこれではまずいということで、運行本数を50%にする、70%にするといったプログラムは働く仕掛けにはなっている。
ある駅の上り線路で「人身事故」(痛ましいことに多分その99%は自殺による)という事態になると下りの電車もすべて止められてしまう。上りの方向でその駅より先にいた電車も止められてしまう。前方に何の障害もないのに電車は動かない。動かして支障の無い電車は動かすという器用なプログラムは組まれていないようだ。満員の電車の中で乗客は缶詰である。30分も1時間も。
異常事態に弱いのが高度に発達した文明システムの泣き所である。そして、恐ろしいことに、システムだけでなく、一人一人の人間が異常事態に対処できなくなっている。自分で自分の身を守るという原始的本能が遺伝子から消えてしまい、誰かの指示を待つしかできなくなっている。何年か前、”最近の若者は指示待ち族である”なんて評論があったが、実際は若者だけでなくこの列島の住人のほとんどがこの族に属していると思われる。
話が主題と外れそうになったのでここらでやめる。
(13.02.06.篠原泰正)