日曜日(13年1月20日)、家人も出掛け、テレビを見るといっても午後2時からのラグビートップリーグプレイオフ東芝対パナソニックぐらいしかないので、新聞に掲載されていた大学入試センターの試験(土曜日に行われた)1日目の課目から、得意のはずの国語にチャレンジしてみることにした。
問題は4部に分かれており、第1部は小林秀雄のエッセイの読解、第2部は牧野信一の小説の読解、第3部は古文の読解、第4部は漢文の読解となっている。この構成でわかるように、全てが文学鑑賞であり、国語すなわち日本語で表現する力をテストする部分はまったくない。高等学校の「国語」という課目がこの試験のように文学鑑賞で構成されているのだろう。
まずこの出題構成に驚いたが、驚いているだけでは試験に落っこちるので、ともかく第1部から手を付けることにした。題材は小林秀雄の「鍔つば」と題されたエッセイであり、日本刀の部分である鍔の文様などを対象にしながら日本人の精神や宗教や心情を語っている。私は学生の時に評論家小林秀雄の作品幾つかを読んで嫌いになり、今に至るまでまったく読んでいないから、ここで出された作品も初めてお目にかかる。若いときの印象どおり、何かごてごてと飾った嫌味な文章である。まあ、そのような私的感情は試験とかかわりがないから、ともかく回答する。設問のほとんどは、印が付された部分がどのような意味なのか、次の5つの中から適切なものを一つ選べとなっている。全部終わってから自分で採点すると50点満点であった。さすが昔の文学青年!?
第2部は牧野信一の小説「地球儀」の全文が材料になっている。牧野信一は私が覚えている限りでは、戦前の「私小説」作家であるが、その作品を読んだ記憶はない。高校生の時、同じく文学好きの友人H君と私小説にはまり込んだ時期があった。もっとも、そのべたべたうじうじ感が嫌になり2年ほどでその世界からおさらばしたと記憶している。さて、試験であるが、ここでも印の部分の意味を問うもので5個ある解説の中から適切なものを一つ選べとなっている。結果は50点満点中34点という悲惨なものであった。
第3部は「松陰中納言物語」という見たことも聞いたこともない多分平安時代の貴族の色恋の物語が材料である。まったくどうでもいい話である。ここでも同じく印の部分の意味を問うものである。結果は更に悲惨で50点満点中24点である。
第4部は中国の張来という人の作品(もちろん漢文=中国文)が材料である。多分高級官僚である作者が左遷されて地方のお寺に隠棲している時の感想文で、これもまた同じように印部分の意味を問うものとなっている。結果は50点満点中34点。
総得点、200満点中142点という(100点満点なら70点)成績が受験した高校3年生の平均からみて良いのか悪いのかわからないが、ともかく驚いた。自分の成績にではなく、こんな試験が「国語」と称されて出されているのかということに。
現代(半世紀古いが)のエッセイ、戦前の小説、平安時代の物語、中国の(時代は知らないが)随想、こんなものを読まされてその部分部分の読解力で「国語力」を試され評価されるとは。若者があわれ過ぎる。
この「村塾」の場で何度も書いてきたように、日本の中学から高等学校には「日本語」という教科は存在していない。明確でかつ明快な日本語文章を書く訓練を行う教科は一つも存在していない。そりゃ文学も結構なものではあるが、そんなものは個々人の好みでやればいいものであり、学校で必修科目として教えるような代物ではない。必修で教えるべきは日本語であり、文学鑑賞は好きな生徒が選択で受ければいいだけのものである。
試験を終えて(1時間ぐらいかかった)怒りながら新聞を読み始めたら、グローバル化と大学の現状のような連載特集が目についた。文学鑑賞力だけをセンター試験の課題にしておきながら、つまりこんなアホなことを何十年も続けながら、若者(大学生)のグローバル化もくそもあったものではない。母語である日本語でまともな文章が書けないのが、英語が唯一の共通語であるグローバルの戦場で生きられるはずがない。
教育に携わっている大人たちは一体何を考えているのだろうか。このような試験をしていておかしいと思わないのだろうか。若者を生かす気なのか殺す気なのか、どっちだ。自分のしていることを恥ずかしい思わないのかね。茶の間での自主試験を終えてラグビーを見始めたが、怒りが静まらないので、東芝とパナソニックの壮絶な肉弾戦もあまりこころに響くところがなかった。
(13.01.21.篠原泰正)